ディスカバー・ニッケイ

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医師の一日 (英語)

(英語)父の一日は、朝診療所を開くことから始まりました。診療所が入っていたビルは、ガーデナ通り沿いに今もあります。住所は、749ガーデナ・ブールバードでした。診察室は3、4室くらいあって、そこで診察を行いました。午前中は予約なしで来る患者を順番に診察しました。

父には一緒に働く若い医師が何人かいて、そのうちの1人がノーマン・コバヤシ氏でした。その他の医師は私たち一家と一緒に住んでいました。当時彼らのほとんどは独身で、その後、誰かが若い医師たちにお嫁さんを紹介することもありました。でも、お昼時には全員が一緒に昼食をとっていたので、母とお手伝いさんがその準備をしていました。

昼食後、みんなは普段着に着替え、父の4ドアの車か別の車に乗り込み、ロサンゼルスまで運転して行きました。フリーウェイ(高速道路)ができる以前のことです。アヴァロンやサンペドロ・ストリート、スローソンを通り、ソト・ストリートも過ぎてボイル・ハイツの日本人病院まで出かけていたのです。そこで回診を行い、それが終わるとリトル東京へ行き、診療所を開けて診察しました。全てが終了すると、父たちは来た道をそのまま戻り、家路に着きました。 診察は、予約なしで受け付けていたので、その日最後の患者が帰ると、父たちは診療所を閉めて帰宅しました。

時には、患者の家庭で訪問診察を行っていましたので、リスト順に患者を訪ねてから帰宅していました。このような毎日が、父や他の医師たちの日常でした。


日本の病院

日付: 2009年9月21日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: トム・イケダ、マルサ・ナカガワ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

フランセス・ミドリ・タシロ・カジさんは、1928年4月30日生まれの日系二世です。カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれ、ロサンゼルス郊外のガーデナで育ちました。彼女の父は、ボイル・ハイツ地区で医師として重要な役割を担っていました。第二次大戦中はアリゾナ州ポストンの強制収容所に収容され、出所後、一家はテンサイ農場で働くためコロラドに移り住みました。その後一家はロサンゼルスに戻り、彼女の父は再び医師として仕事を再開しました。フランセスは、2016年に88歳で亡くなりました。(2020年4月)

サカエ・シゲカワ

未婚を貫く (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

ヨシコ・イノセ

日本人病院への思い出 (英語・日本語)

羅府新報創設者の娘(1908年生)

ヨシコ・イノセ

日本人病院の閉鎖 (英語・日本語)

羅府新報創設者の娘(1908年生)

マーガレット・クロイワ

日本人病院と両親 (英語)

一世医師の娘

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メリノール療養所(英語)

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