ディスカバー・ニッケイ

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天野芳太郎の日本でのビジネス

関東大震災のあと、なんかちょっと仕事して。関東大震災にあった時に、お父さんが、病気なさって。でも頑丈な大きなお父さんだったから、何年か生き延びられたですけども。その後、あの人、天野・・・お饅頭の、何て言うお店だった?何か天野・・・なんかね、横浜でお饅頭屋さんやるんですよ。そう、お饅頭屋やるのもね、すごく徹底して、一番いい粉とか、一番いい小豆だとか、もうそうやって、お饅頭作って、専門家を連れてきて。で、あの人も自分で練ったんですって。

で、いろんなことやって、何かすごく評判な。またその人のお店の運営が、おもしろくてね。何かあの、お店も小奇麗なお店ができて、それで(一回に)あんまりたくさん作らなくて、フレッシュなのを日に3回ぐらい作ったらしいです。そうすると、列ができて、あの、もうすぐっていう時に終わったり。そうすると、また必ずその後の、あの、あれに来るんだそうです。 そうして、あの、何て言いますか、自分の、あのおまんじゅうの長さを、こう線路で計ると、とうとう、東京の、横浜の駅から出発して、東京の何とかって言う駅まで着くってね。着くようになったって。届いたって言うんですよ。だから、横浜の市民の、何て言うんですか、義務は、それをまた横浜へ引き返すためだって言うので。宣伝がおもしろいって言うので、わんわん、みんなわんさこわんさこ押しかけて、買って下さったんですって。全部、大きな。だから、銀行何とか、南米何とかっていう大きな銀行もあったですけども、そこのおやつが全部、天野屋・・何かおまんじゅう屋さんから出たんだそうです。すごくとんちのある人だった。


ビジネス 経済学 日本 経営 戦前 第二次世界大戦 天野芳太郎

日付: 2007年4月18日

場所: ペルー、リマ市

インタビュアー: アン・カネコ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

天野美代子(旧姓:渡辺)はリマ市生まれの日系二世。1954年、実業家・アンデス文明研究家の天野芳太郎氏と結婚。1964年5月には、故夫芳太郎氏とともに、リマ市ミラフローレス区レティロ街に天野博物館を竣工し、8月に開館。現在は、故夫の意思を引き継ぎ、芳太郎氏の私蔵をもって設立され、チャンカイ文化の研究で知られる天野博物館の館長を務める。 (2009年10月)

ヘンリー・須藤

アイデンティティ

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

BJ・コバヤシ

家族経営に携わることへ疑問なし(英語)

ハワイのビジネスマン、開発者

BJ・コバヤシ

Alberto Chikanobu Kobayashi, Inc.(英語)

ハワイのビジネスマン、開発者

阪根 博

天野芳太郎の南米進出

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

研究のためにビジネスに力を入れた天野芳太郎

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

戦後ペルーへ戻った理由

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

捕虜交換船で日本へ帰国

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

チャンカイ文化を選んだ天野芳太郎

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

世紀の大発見、シクラス

天野博物館事務局長(1948年生)

田岡 功

日本の若者に対して感じること

パラグアイ駐日大使(1943年生)

マサカツ・ハイメ・アシミネ・オオシロ

日本に対するイメージ:期待と現実(スペイン語)

ボリビア元駐日大使 (1958-2014年)

恩智 敏子 エレナ

日本語を知る重要性を更に認識(スペイン語)

在日日系ペルー人

ハルノリ・オダ

アメリカ生活の始まり(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

ハルノリ・オダ

園芸ビジネスを学ぶ(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

ハルノリ・オダ

造園業から園芸場経営へ(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)