ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1009/

収容所からの外に出ようとして逮捕 (英語)

(英語)私たちは、自分たちが自由に収容所を出入りする権利を持たないことを明らかにしたかったのです。(そのことを立証するために)私たちは、収容所の門から外に向かって歩き出しました。すると護衛兵は、許可証がなければ勝手に外に出てはいけない、と言いました。それに対して私たちは、「でも自分たちはアメリカ市民で、何の罪も犯していない。」と反論し、隣町まで出かけてくると言いました。すると護衛兵は、「そのまま歩き続ければ、お前たちを撃たなければならない。」と言いました。それで撃たれるよりはましだろうと思い、護衛兵に我々を逮捕させた訳です。それから数日間、我々は収容所の衛兵所で過ごしたのですが、実際それはさほど悪くありませんでした。久しぶりにおいしいものが食べられましたからね。 何日経ってからのことかは覚えていませんが、事情聴取がありました。当時の戦時転住局のロバートソン局長を始め、収容所担当委員会や監視局、陸軍憲兵隊からの5、6人がU字形に並べられた席に座り、我々は彼らを前にして部屋の真ん中で尋問を受けました。そうですね、今あなた(インタビュア)が手に持っているのはその時の質問事項と私の回答でしょう。(笑い)とにかく私たちは、収容所からの外出がこのような事態を招くことを明らかにしたかったのと、後々裁判などの法的処置に入る際にその時のことを何かに利用できるかもしれないと思った訳です。私たちは、自分たちに自由はなく、実際は囚人の身であるということを証明したかったのです。それが目的でしたが、裁判ではそれが我々に有利に働くことはありませんでした。


公民権 投獄 監禁 抵抗 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2006年5月9日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: リサ・イタガキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フランク・エミ氏は、1916年9月23日、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。彼が家族と共に営んできたビジネスは、戦争により廃業に追い込まれ、エミ氏と妻、2人の子供はハートマウンテン強制収容所に送られました。

エミ氏は、多くの人々と共に日系アメリカ人強制収容の合憲性について声高に問いました。また、ハートマウンテン公平委員会の立ち上げに貢献し、徴兵拒否運動を起こし、政府が日系人に対して取った措置に抗議しました。当時、エミ氏には子供がいたため、徴兵対象者ではありませんでした。

公平委員会は、日系人がアメリカ市民権を取り戻し、家族が収容所から解放されれば、喜んで兵役を受け入れると論じました。合衆国政府は、エミ氏と他6名のリーダーを徴兵忌避の共謀罪で訴えました。エミ氏は、18か月投獄され、他86人は裁判を経て徴兵拒否の罪で投獄されました。

戦後、エミ氏や他の徴兵拒否者は、日系人リーダーや退役軍人からつまはじきにされていました。その扱いは、戦後40年経ち、賠償運動が高まり、不正に対して毅然と立ち向かった公平委員会への汚名が晴らされるまで続きました。

フランク・エミ氏は、2010年12月、94歳で亡くなりました。(2010年12月)

Mako Nakagawa
en
ja
es
pt
マコ・ナカガワ

テキサス州クリスタルシティーで過ごした幼年期の思い出 (英語)

教師(1937-2021年)

en
ja
es
pt
Peter Irons
en
ja
es
pt
ピーター・アイロンズ

強制収容を知る (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

en
ja
es
pt
George Yamada
en
ja
es
pt
ジョージ・ヤマダ

真珠湾攻撃後に解雇された日系アメリカ人の鉄道労働者たち (英語)

初生雛鑑別師 (1923年生)

en
ja
es
pt
Peter Irons
en
ja
es
pt
ピーター・アイロンズ

学ぶべき教訓 (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

en
ja
es
pt
George Yamada
en
ja
es
pt
ジョージ・ヤマダ

真珠湾攻撃後に映画館で受けた人種差別 (英語)

初生雛鑑別師 (1923年生)

en
ja
es
pt
Chiye Tomihiro
en
ja
es
pt
チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

en
ja
es
pt
Chiye Tomihiro
en
ja
es
pt
チエ・トミヒロ

波風を立てるな (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

en
ja
es
pt
Jimmy Ko Fukuhara
en
ja
es
pt
ジミー・コウ・フクハラ

マンザナーへの旅(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

en
ja
es
pt
Jimmy Ko Fukuhara
en
ja
es
pt
ジミー・コウ・フクハラ

マンザナーでの仕事(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

en
ja
es
pt
Bert Nakano
en
ja
es
pt
バート・ナカノ

大衆の力 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

en
ja
es
pt
George Yoshida
en
ja
es
pt
ジョージ・ヨシダ

それでも、日本人 (英語)

音楽家 (1922年)

en
ja
es
pt
Jimmy Ko Fukuhara
en
ja
es
pt
ジミー・コウ・フクハラ

アイダホでのテンサイとじゃがいもの栽培(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

en
ja
es
pt
William Marutani
en
ja
es
pt
ウィリアム・マルタニ

パインデールとツール・レイク強制収容所の回想(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

en
ja
es
pt
Kathryn Doi Todd
en
ja
es
pt
キャサリン・ドイ・トッド

収容所体験の影響 (英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

en
ja
es
pt
William Marutani
en
ja
es
pt
ウィリアム・マルタニ

公民権運動への積極的参加(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

en
ja
es
pt