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戦争による危機を超えて
最初の数年は、収穫は見込まれなかったが、やがてナスやサツマイモ、アスパラガス、トマトなどが収穫された。その後コロニーでは協同で、食糧の購入や販売などを始めたり、作物を荷造り、出荷するための小屋も建てられた。
コミュニティーづくりでも協力し合い、関係者みんながクリスチャンではなかったもののキリスト教の教会を建て、地域の核をつくっていった。また、コロニーの人々は町の白人社会との競合を避けるために、農作物に関するものを除いて、商店などを開いたりすることはなかった。
こうして発展していったコロニーでは1940年には、69の日本人家族が、3700エーカー以上を耕作していたという。太平洋戦争が勃発したのちは、彼らは強制収容所に送られるが、その間所有地の管理を契約して第三者に任せることができた。
戦後もコロニーはそのまま残り、リヴィングストン農業組合(Livingston Farmers Association)を中心に農業経営が協同で続けられてきた。
農業を中心に町の発展に貢献し、白人社会と積極的に融合を図りながら、地域に溶け込んできたのがヤマトコロニーだ。時代の流れの中で農地が宅地として売却されたり、世代の交代とともに自ら農業に従事する日系人はここでも減っている。
しかし、アメリカでの多くの日系移民が当初は農業に従事しながらも、2世、3世の代になると農業から離れていくなかでは、日系人がつくった農業の共同体が形を残しているのは珍しいだろう。
日本人、日系人による開拓の歴史
ミュージアムの内部に目を向けよう。館内には、ヤマトコロニーをとらえたさまざまな写真が時代を追って展示されている。一面沙漠のように広がる大地に立つ入植者たち。なにもなかったところに作物を植えようという初期の光景だろう。馬を使っての耕作の様子、トラクターに燃料を補給する女性の逞しい姿をとらえたものもある。
やがてや野菜も実り、入植後に植えた木が人の背丈ほどになっている。収穫した作物を箱詰めする場所であるパッキングハウスは、協同運営の象徴だ。
当初住居だったものを教会に変えたという木造家屋。2階建ての瀟洒な家も見られる。写真は、人々の生活の様子もとらえている。コロニーの子供たちが学校の前で並んでいる。屋外で大きなテーブルを囲んでのピクニックのほか、結婚式もあれば、和服に身を包んで三味線に合わせた踊りの姿も。
戦争が始まると、コロニーの人たちは、数ある収容所のなかでコロラド州にあるアマチという収容所に送られる。列車で移送される時の写真をはじめ、かまぼこのように立ち並ぶ所内の“宿舎”。そのなかで結成された野球チームの集合写真。
そして、彼らの中から何人もが戦地に赴いた。このうち、ヨーロッパ戦線で活躍した442部隊の一員として戦死した若い2世の肖像が並んでいる。
ヤマトロードと小学校
ある新聞記事が展示されていた。それは、地元の小学校に「ヤマトコロニー」という名称をつけることが決まったことに関するニュースだった。
安孫子久太郎の写真を添えて書かれた記事は、この学校が建つ場所が、もともと安孫子が購入した土地であることや、リヴィングストン地域の教育に対して日本人のコロニーが多大の貢献をなしたことを示していた。
その小学校は、ミュージアムからそう遠くない長閑な場所にあった。「Yamato Colony Elementary」という看板が入り口に掲げられ、広々とした敷地に付設の幼稚園と並んで平屋の教室が建っている。
事前に連絡を取り学校内を見学させてもらった。学校の歴史や地域に詳しいキャシー・バークレーさんは、ヤマトコロニーという名称の由来についてこう話す。
「この学校を建てるときに、日系のなかで地元のキシ・ファミリーが地域へ大きな貢献をしてくれたので、ヤマトコロニーという名前をつけたようです」
学校から帰る子供たちを見ていると、インド系と思われる顔つきが目についた。実際は、全校児童568人のうち、メキシコなどヒスパニックが約8割、アジア・太平洋諸国からが12%、白人5%、そしてアメリカンインディアンや黒人はそれぞれ1%となっている。
かつて日系の子供たちが多かったこの地域で、いまは日系でこの学校に通っている児童はいないようだ。しかし、アーモンドやサツマイモ畑になっている周辺一帯には、100年以上前に入植した日本人の子孫たちがいる。
そのひとり、バークレーさんが名前を挙げたキシ・ファミリーの一人、シャーマン・キシさんを訪ねた。最初に入植した貴志太次郎の親戚である。現在キシさんは、姪とその夫をパートナーとして農業を続けている。入植以来キシ家としてはさまざまな作物を栽培してきたが、現在は200エーカーでアーモンドを、140エーカーでサツマイモを栽培している。
キシさんの父親は和歌山県出身だった。「父は故郷を離れて日本の軍人になろうとしたのだけれど、耳が遠くてなれなかった。それで本人としては故郷に帰りづらかったようで、アメリカに渡ってしまった」という。詳しいことについては、父親からは聞いたことがなかった。
入植直後の1906年には、サンフランシスコで大地震が起き、そこからこちらへ逃れてきた来た日本人の家族連れも5~6世帯いたという。地元では白人社会とうまくつきあってきたが、増える日本人入植者への反発はあり、少なからず偏見もあった。戦争が始まると、日系人の家にはライフル弾が撃ち込まれることもあった。
キシさんは戦時中は、MIS(陸軍情報部)に所属し、通訳として従軍、日本にも駐留したことがある。
キシさんとしばらく話したあとで、ヤマトコロニーなるものはすでになくなっていると、錯覚していた私は、「ヤマトコロニーはいつまで続いていたんですか」と、尋ねた。すると88歳になる彼は、
「いや、いまもあるよ、ヤマトコロニーは。ここはとてもまとまった農業組合があって、いまも当初のコロニーの関係者は60~70人いて、農地を所有している・・・この先にはヤマトという名の道もあるよ」と、力強く言う。もちろん過去のような日系人によるコミュニティーとしてのコロニーはないが、地域として存続しているようだ。
夕方になり、この日のうちにサンフランシスコまで車で戻らなければならなかった私は、キシさん夫妻に取材の礼を言っておいとました。するとキシさんが「まっすぐ行って二つ目に交わるところがヤマトロードだよ」と、手振りで案内してくれた。
すれ違う車もないコロニーの中の“農道”を少し進むと、なるほど十字路に「YAMATO」と書かれた小さな標識が立っていた。
※参考:『カリフォルニア移民物語』(佐渡拓平著、亜紀書房)ほか。
(敬称一部略)
* 本稿は、JBPress (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2013年7月23日掲載)からの転載です。
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