インタビュー
真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)
(英語)I*: (真珠湾攻撃は)あなたのご家族にはどんな影響を与えましたか?
1941年12月7日の真珠湾攻撃があった夜、家族で晩ごはんを食べていると、誰かが家のドアをノックしだので、私が対応したんです。驚いたことに、目の前には背の高いカナダ騎馬警察隊員(RCMP)が3人立っていて、「シュンイチ・ササキはここに居るか」と聞くんです。私は「居ます。」と答えました。そしたら3人は家の中に入って来て、部屋という部屋、それから引き出しまで全てを隈なく調べ上げて、保険証や出生証明、パスポート等の父の個人的な書類全てを没収したんです。そしてその夜、父も連行されました。 私達は父がその後どこに連れて行かれたのか、知りませんでした。2週間後、私達は父がバンクーバーの海岸沿いにある入国管理局の留置所に拘束されていることを知ったのです。父が連れて行かれた夜、約40人の日系人が一斉に検挙されており、1か月程そこに収容されていたそうです。その後、私の父を含め、収容されていた40人は、アルベルタ北部のシーベ捕虜収容所に送られました。父からの手紙には、そこにはドイツで捕えられ連行されて来たドイツ兵の捕虜がたくさん収容されていた、と書いてありました。その後、父はアルベルタのシーベからオンタリオのペタワワまで再移動させられ、最終的にアングラーの収容所に拘束されました。 (音声中断)
I: どうしてあなたのお父さんが(検挙の)標的になったと思われますか?
おそらく、父が日加貿易に携わり、両国の貿易関係を促進しようとしていたからだと思います。父はシアトルにも支店のある、三井物産を通して木材を輸出していたので、日本への出荷の為によくシアトルへ出張に出ていました。小さい頃、父の出張に付いて何度かシアトルに行ったことを覚えていますよ。一番よく覚えているのは、三井物産の日本人のビジネスマンの事です。彼らはかなりのゴルフ好きだったので、彼らがバンクーバーに来ると、父は彼らをゴルフに連れて行き、私はキャディーをしました。 (音声中断)
I: あなたのお母さんの当時の経験を教えて下さい。
そうですね、私の母にとっても、当時は大変な時代でした。思い起こすと、真珠湾攻撃後、全ての日本人は1月中旬までに海岸から半径100マイル以上離れなければならないという枢密院法令が、1月にオタワから発令されました。私も生まれたのは日本でしたから、日本国籍を有する敵国人として分類されたのです。ですから私は大学を辞めなければならなくなり、指定された半径100マイル以上の地点まで移動しなければなりませんでした。 ですが、幸運にも私の妹はその1年前に結婚し、義理の弟の家族がカルガリーに住んでいました。私が退去しなければならなくなった時、「フレッド、こっちに来て一緒に住もう。」と言ってくれたのです。私がバンクーバーを去った時には、夜間外出禁止令が出されていたことを覚えています。私と同じ境遇にいた学生はもう二人いて、サブロウ・タカハシとノリ・ニシオも日本国籍保持者でした。彼らはアルベルタのエドモントンへ、そして私はカルガリーへ行きました。私の父は収容され、私もカルガリーへ発ったので、母は私の6人の妹達と共にバンクーバーに残される形になったんです。それは、母にとっては非常につらいことでした。 (音声中断)
I: その後女性達はどうなったのですか?
恐らく1942年の3月だったと思いますが、ある日ニュー・カナディアン誌の編集者であるトミー・ショウヤマが電話をかけてきて、もし母と妹達が2、3日で家を出る準備ができれば、バンクーバーのカナダ合同教会のメンバーと一緒にカスロに連れて行くことができる、と言ってきたそうです。それでニュー・カナディアン誌のスタッフが来て、急いで引越しの荷造りの手伝いをしてくれて、母と妹達はブリティッシュコロンビアのカスロへ発ちました。
* “I” はインタビュワー(テリー・ヤマダ)