ディスカバー・ニッケイ

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ロサンゼルスへ移住(英語)

(英語)最低でも3ヶ月間どこかで仕事につくことが条件のひとつだったので私達(両親)は石橋苺農園で3ヶ月間苺の収穫の仕事をし、ちょうど季節が終わる頃契約が切れたので、そこを去りました。そしてロサンゼルスのボイルハイツに移りました。

その後、父は英語をあまり使う必要のない庭師の仕事を学ぶために下宿をし、そのあいだ母は裁縫や家の掃除をしたりして家事を学びました。

そして私は女学生としてアメリカ人の家族の家に住み込み、お手伝いをしながら小遣いと生活費を稼ぎ、そこで英語を学びました。英語を学ぶことは高校を卒業するのと同じくらい私にとって大事なことでした。


ボイルハイツ カリフォルニア州 移住 (immigration) ロサンゼルス アメリカ合衆国

日付: 2017年7月12日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 渡辺美津重、西村陽子、レイトン・オカダ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1938年3月25日にフィリピンのミンダナオ島ダバオでカツジロウとウラ・“ミエ”・ アシザワの長女として生まれる。1945年、彼女が7歳のとき第二次世界大戦で日本が敗北したのをきっかけに家族でフィリピンを離れた後、10年間静岡に住んだ。その後家族はアメリカの市民権を取得。1956年3月にロサンゼルスへ移住し、サワコはアルハンブラ高校に進学し、パサデナシティ・カレッジで学んだ。その後、サンホゼ州立大学に進み、自身の勉強を気前よく支えてくれた恩師との出会いを通して、作業療法士となった。現在はさくらガーデン(元敬老リタイアメントホーム)でボランティアをしている。(2018年3月現在)

ルイス・ヤマダ

戦後、アルゼンチン定住を決意(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

ルイス・ヤマダ

戦後アルゼンチンに戻る(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

ドリス・モロミサト

移民の苦労神話(スペイン語)

詩人、沖縄系ペルー人 (1962年生)

スミコ・コザワ

家族経営の花屋で働き、グレタ・ガルボと出会う (英語)

花屋 (1916-2016年)

大友 八郎

アメリカで直面した偏見

溶接業を営む新一世(1936年生)

A. ウォーレス・タシマ

少年にとっての収容所(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)

フレッド・Y・ホシヤマ

ホノルルでの就職(英語)

二世、YMCAと日系アメリカ人コミュニティ・リーダー(1914-2015)

大友 八郎

娘が日本になじめず、再度アメリカ行きを決意

溶接業を営む新一世(1936年生)

ミツエ・ヤマダ

収容所の日系人を支え、就職の手助けをしてくれたクエーカー教徒への感謝(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

カズム・ナガヌマ

月に一度入国管理局にチェックインする

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)