ディスカバー・ニッケイ

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リーマンショック以降のコミュニティの変化

ぼくが来た89年から、まあ、少しずつこうブラジル人が増えていって、93年ごろからブラジル二世ができていきましたけれども、うーん、非常に大きな、このコミュニティといいますか、これやっぱりブラジル人の人たちと地元の人たちの間には大きな壁はあった気はしますよね。それはお互いが距離をもつようにしているとかっていうことではなく、やっぱり、どう交流していけばいいのかが分からないということもありますし、うーん、お互いが…なんでしょう、あの、近づくきっかけも無ければ、それを必要とすることもなかったので、うーん、無意識的にお互い…交わるようなことは無かったですよね。

ただそれがリーマンショック以降、これはやっぱり経済的な部分で変わっていっているところが大きいとは思うんですけれども、やはりブラジル人側ももっと日本語も勉強して、えー、ま、日本人のお客さんを取り込もうとする店も出てくれば、反対に地元のお店の人たちももっと外国人を受け入れていかないといけない。そういう動きも見られて、うーん、ブラジルの店で日本語の表記もあれば、日本のお店でポルトガル語の表記もあったり、国旗を飾ってくれるお店もあって、それがすごく自分の中では新鮮だなと思いますね。

大きく、やっぱり昔と比べると変わったところだなという気はしますね。なので、お互いがもっと交流をもっていかなきゃ、もっていかないといけないと思う気持ちは強くなっていることは間違いないことだと思います。


ブラジル人 コミュニティ 群馬県 日本 在日日系人 大泉

日付: 2016年10月18日

場所: 日本、群馬県

インタビュアー: 小嶋 茂

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1979年1月、サンパウロに生まれる。熊本出身の祖父母を持つ三世で、日系人の多いリベルダージ近くモンチ・ケメル地域で育つ。1989年、デカセギとして来ていた父に呼び寄せられ日本へ移住。以来、群馬県大泉町で暮らす。移住当初は、言葉の壁に悩んでいたが、日本語を学ぶにつれ友達も増え、今では日本語を活かしながらグラフィックデザイナーとしてブラジル人コミュニティをサポートしている。2009年に独立し、デザイン事務所経営。大泉町を紹介するフリーペーパーを発行。大泉町をブラジルタウンにする夢をもち尽力中。(2017年8月)

阪根 博

フジモリ元大統領にみる戦前と現代のペルー社会の違い

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

ペルーの一般大衆に選ばれたフジモリ元大統領

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

日系コミュニティがみるフジモリ元大統領

天野博物館事務局長(1948年生)

田岡 功

日本の若者に対して感じること

パラグアイ駐日大使(1943年生)

田岡 功

一世に残された大きな役割

パラグアイ駐日大使(1943年生)

恩智 敏子 エレナ

大和市国際化協会のボランティアスタッフになったきっかけ(スペイン語)

在日日系ペルー人

恩智 敏子 エレナ

社会統合を促進するさまざまな参加方法(スペイン語)

在日日系ペルー人

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

政界入りのきっかけ(英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

市民参加 (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

キャサリン・ドイ・トッド

リトル東京で法律事務所を開業(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

キャサリン・ドイ・トッド

JABA: 学生とコミュニティの繋がり(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

キャサリン・ドイ・トッド

日米文化会館との関わり(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

ロバート・ナカムラ

自由への道 (英語)

映画プロデューサー(1936年生)

ロバート・ナカムラ

メディアを使いこなす (英語)

映画プロデューサー(1936年生)

ロバート・ナカムラ

喜ばしい経験 (英語)

映画プロデューサー(1936年生)