ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1545/

リーマンショックを機に日本語のできるグラフィックデザイナー として独立

大泉町の中では、大きな影響を与えましたね。特にリーマンショックは大きかったんですけども、たくさんの失業者も出て、ブラジルのお店も、以前のように、売れない状況が、続いて。

ただそれはいいこともあったんです。先ほどもお話したように、やっぱり日本語を勉強したいと思う人も増えれば、もっと日本人を取り込まないといけないと思うことも増えていく中で、ぼくにとってはチャンスにはなりましたけどもね。やっぱり、日本語ができる人が少ない状況の中で、ぼくはグラフィックデザインで頑張っていこうと思ったときに、ぼくの強みは何だろうと思ったときに、日本語ができるグラフィックデザイナーしか思い浮かばなかったので、ちょうどタイミングが良かったかもしれないですね。

ぼくが独立したのが2009年の6月なので、ちょうどお店の人たちが苦しんでいるときに、やっぱり日本語のメニューを作らないと、日本語の案内が欲しい、そんな要望が増えていく中で、ぼくは独立しましたので、ぼくの、えー、長所をまぁ、長所と言ったらなんかあれかな、まあ、自分の得意分野とするところで、すぐに、仕事につなげられたところがありましたので、ま、あの、大変だったところもあれば、やっぱりそれが、きっかけとなって、大きな動きに変わっていったというところでは、すごくよかったような気がしますね。


グラフィックデザイン ブラジル人 在日日系人 大泉 日本 群馬県

日付: 2016年10月18日

場所: 日本、群馬県

インタビュアー: 小嶋 茂

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1979年1月、サンパウロに生まれる。熊本出身の祖父母を持つ三世で、日系人の多いリベルダージ近くモンチ・ケメル地域で育つ。1989年、デカセギとして来ていた父に呼び寄せられ日本へ移住。以来、群馬県大泉町で暮らす。移住当初は、言葉の壁に悩んでいたが、日本語を学ぶにつれ友達も増え、今では日本語を活かしながらグラフィックデザイナーとしてブラジル人コミュニティをサポートしている。2009年に独立し、デザイン事務所経営。大泉町を紹介するフリーペーパーを発行。大泉町をブラジルタウンにする夢をもち尽力中。(2017年8月)

恩智 敏子 エレナ

大和市国際化協会のボランティアスタッフになったきっかけ(スペイン語)

在日日系ペルー人

恩智 敏子 エレナ

社会統合を促進するさまざまな参加方法(スペイン語)

在日日系ペルー人

恩智 敏子 エレナ

ペルー人子弟にとって、日本の学校に通うことの挑戦と試練(スペイン語)

在日日系ペルー人

恩智 敏子 エレナ

日本のペルー人子弟のアイデンティティ危機問題(スペイン語)

在日日系ペルー人

恩智 敏子 エレナ

デカセギ者としての移動によっておこる家庭崩壊(スペイン語)

在日日系ペルー人

アントニオ・シンキチ・シコタ

大泉町の日系ブラジル人への政府の支援(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本のブラジルタウン・大泉町(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本の日系コミュニティの将来(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

大泉町がブラジルタウンになった理由(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

大泉町の日系ブラジル人(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

ファン・アルベルト・松本

日本在住の日系人をサポート

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

ファン・アルベルト・松本

在日日系コミュニティの変化

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

ファン・アルベルト・松本

次世代日系コミュニティ

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

ファン・アルベルト・松本

ニッケイアイデンティティについて

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

ファン・アルベルト・松本

日本にいるからこそ果たせる自分の役割

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)