ディスカバー・ニッケイ

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子供たちへ継承したかったこと

幼いときから育てるの、主に家内の方に任せたようになっておりましてね。私も仕事の具合で、どうしても留守することもありますし。朝早くから夜遅くまでと、なかなか子どもの一緒に、チャンス、ゆっくり話してやるのがあんまりなかったんですよね。できるだけバケーションで一緒にどこかに出掛けるというのは、心がけてある程度やってきましたけれども。子どもたちの生活にこう、っていうのはあんまり…。子どもに向かって言ったということは、記憶にないし。でも家内の方からですね、こうこうこうしなきゃいけないということを、生活をですね。子どもを育てることについて、相談を。そんなにたくさんのことはなかったですかねえ。僕の心の中で、日本人であるということを、それとなく子どもに伝えたということはあると思うんですね。日本人だからこれをやらなきゃいけない、ということ言ったわけではないんだけど、日本人の意識という、これはある程度は子どもにも通じた気がします。


家族 アイデンティティ

日付: 2008年6月17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ヘンリー・榮一・須藤氏は、1928年2月5日一世の両親のもと、ノースダコタ州ミノットに生まれました。父親と妹が亡くなった後、母はヘンリーと弟を連れて日本へ帰国しました。当時7歳のヘンリーは、ほとんど日本語がわからなかったため、クラスメイトに溶け込もうと必死に日本語の勉強をしました。17歳の時、教員より日本軍への志願を勧められ、また、経済的理由からも大学進学は難しいという判断から、軍に志願することにしました。基礎的なトレーニングを終えて、須藤氏は、スペシャルユニットとして、34人の学生の1人に選ばれましたが、人間魚雷による自爆攻撃ユニットであることは知らされていませんでした。広島に原爆が投下された時、須藤氏はこのユニットにいたため、原爆投下の36時間後には救護兵として広島に到着していました。彼は、広島へ救護に向かった最初の兵士の1人でした。

戦後、須藤氏は合衆国へ戻りました。母親が亡くなってからは叔父と暮らし、ベルモント高校へ入学しましたが、その3カ月後、朝鮮戦争に招集されました。通訳になるためにパーマー基地で韓国語を学び、朝鮮半島の第一線で尋問員となる予定でしたが、日本を通過した際に、日本で通訳となるよう要請を受けました。

陸軍から退役した須藤氏は、ロサンゼルス・シティ・カレッジで貿易を専攻し、オタギリ社に入社し、1993年の退職まで働きました。

須藤氏は、2008年10月17日、80歳で他界しました。(2009年1月30日)

サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。

レイコ・T・サカタ

親の結婚

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。