ディスカバー・ニッケイ

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ルーズベルトが日本からの攻撃を望んでいたことを知って(英語)

(英語)最近知ったことですが、当時ルーズベルトは、オランダに日本に燃油を売らないよう根回しをしていたそうです。2、3年前に出版された、ビバリーという人が行った最新の調査によると、ルーズベルトは大変聡明な大統領だったわけですが、イギリスを助けようとしていたのです。イギリスは戦争に負けかけていて、もしヨーロッパがナチスに占領されれば、それはアメリカにも脅威となっただろうと書かれています。

当時のアメリカの雰囲気は、ヨーロッパへの介入には消極的でした。孤立主義運動が盛んで、学校でも「ヨーロッパには介入するな」というパレードが、リンドバーグ、ヘンリー・フォード、ハーストコーポレーション傘下のメディアに率いられ、行われました。ですから、50-70%のアメリカ人は介入に否定的だったと思います。そのことをルーズベルトは知っていたので、イギリスを助けること、つまり目立った手助けをするわけにはいきませんでした。この本―非常によく調査してありますね―によると、米国市民を焚き付けるには、日本が何かバカなことをするようけしかけることが唯一の策だったとあります。日本がアメリカを攻撃すれば、アメリカの人々を焚き付けられる。ルーズベルトはそのように考えたのです。

当時、日本に軍事力があるなどと考える人はいなかったと思います。日本を負かすには片手で十分と言われていました。この本によると、米国政府には8段階の計画があり、最終段階が燃油の禁輸でした。また、軍の上層部は日本軍の暗号の解読に成功し、米国政府は艦隊が真珠湾に近づいていることを事実上知っていたそうです。 また、米国政府は、ロシアに戻ろうとしていたロシア艦隊に南下するよう命じていました。日本の艦隊との鉢合わせを懸念したのです。政府は入港する船を全て把握していましたが、真珠湾の指揮官には知らせませんでした。日本が攻撃を仕掛けた時、そこまでの成功は見込まれていませんでした。しかし、攻撃に成功した日本はすぐにインドネシアに侵攻し、油田を獲得しました。 僕は、自分が卒論を書いていた時はこのようなことは何も知りませんでした。知っていたのは燃油規制と日本は燃油を必要としていたということだけでした。


フランクリン・ルーズベルト 大統領 アメリカ合衆国 第二次世界大戦

日付: 2005年3月25日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ソージン・キム

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

セドリック・シモ氏は、1919年に生まれ、ロサンゼルスの多人種が混在する地区ボイルハイツで育ちました。シモ氏は、ボーイスカウト活動や剣道に取り組み、日系人スポーツクラブのクーガースでも活発に活動しました。シモ氏は、カリフォルニア大学バークレー校の大学院に在籍していましたが、真珠湾攻撃の次の日、徴兵令状を受け取りました。彼は、アメリカ陸軍情報部語学学校への配属を希望しました。しかしながら、休暇中にマンザナーに強制収容された母親への訪問を禁じられたことに激怒し、外国戦線への参加を拒否しました。その結果、彼は、工兵第1800大隊に配属されました。この部隊には、疑いをかけられたドイツ系、イタリア系、日系人が配属され、戦闘隊が訓練中に壊した道路、橋、フェンスの修復工事にあたりました。シモ氏は、工兵第1800大隊を名誉除隊した後、ボイルハイツへ戻り、ホンダに就職し、輸出担当部門で副代表となりました。

2008年11月20日、日本政府は、日米貿易摩擦が問題となった時期、当時ホンダで働いていたシモ氏が、両国間の貿易推進に寄与したことを評価し、旭日双光章を授与しました。

2020年4月、100歳で亡くなりました。(2020年4月)

Henry Shimizu
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ヘンリー・シミズ

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