おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~
東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。
* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。
このシリーズのストーリー
第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(6)
2015年6月29日 • ブロケット ゆり
第四章(5)を読む >> 3. 1945年 キャンセルになった対抗試合———早春 1年中砂嵐は止まず、雪もちらつく早春のマンザナーですが、高校の男子バスケットボールチームは近くの町のビショップ高校との親善試合に備えて熱気にあふれていました。何しろ初めて相手校に出向いて行く試合でしたから、みんなの気合いも相当なものです。西部防衛司令部の外出許可もとり、チームが出発するという2、3時間前に、ビショップ教育委員会は急に試合をキャンセルして…
第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(5)
2015年6月22日 • ブロケット ゆり
第四章(4)を読む >> 2. 1944年 交換船で日本からの慰問品届く———早春 日米間の捕虜の交換船で懐かしい祖国の薫りが届きました。日本での「敵国在留同胞救援資金募集」で集まった資金で調達した物資が、赤十字経由で届いたのです。1 第一次交換船では緑茶が、第二次交換船では緑茶、味噌、醤油、薬品、娯楽品、書籍が届いています。シアトルの日本語学校の先生をしていたミニドカ収容所の吉武とみかの日記から—&mda…
第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(4)
2015年6月15日 • ブロケット ゆり
第四章(3)を読む >> 子どもの日常———夏 高校生ぐらいになると、野球、バスケットボール、ダンスパーティと組織的な娯楽が多くありましたが、ローティーンの組織的活動は限られていて、グループで収容所内をぶらついていて、問題を起こすことが多かったようです。そこで、管理局はボーイスカウト、ガールスカウトの活動を導入したり、少年を集めてタクル・フットボールチームを作ったりしています。ハートマウンテン収容所で少年時代を過ごした13歳のベーコ…
第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(3)
2015年6月8日 • ブロケット ゆり
第四章(2)を読む >> 出立のとき 27番目と28番目の質問に「イエス、イエス」と答え忠誠と認められた人々は、入隊、または仕事、学業で早く収容所を出て、アメリカ中西部や東部の町に移るよう奨励されました。学業半ばで立ち退きにあった二世の学生を大学に戻す手助けをするために、クエーカー教徒のアメリカン・フレンズ・サービス委員会が後押しをして、全国日系アメリカ人学生転住協議会をつくり、すぐに仕事にとりかかり、4,000人以上の学生を軍事制限地区以外にある6,000以上の大学へ…
第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(2)
2015年6月1日 • ブロケット ゆり
第四章(1)を読む >> 忠誠登録その後 忠誠登録の目的は、アメリカに忠誠である者とそうでないものを分け、忠誠が確認されたものは、兵役につくか、仕事や学業で早くアメリカの一般社会に戻るように促し、不忠誠とされたものは隔離することでした。しかし、よく考えずに作成された質問表は、収容所内に不安と混乱をまねいたため、27番目の質問「二世の者がアメリカ軍入隊の意志があるか」を、女性に対しては「陸軍の看護部隊、及び婦人陸軍部隊で働く意志があるかどうか」と変え、28番目の質問「…
第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(1)
2015年5月25日 • ブロケット ゆり
第三章(6)を読む >> 先日、学校の補習が終ったあと、今まで行ったことのないパン屋さんへ向いました。バスを乗り継ぎ、地図アプリを頼りに歩き、一時間近くかかって辿り着きました。 私の夢は自分のパン屋さんを持つことです。来年の春からは、地元のパン屋さんで修行を始める予定です。その準備期間として、この頃はいろんなパン屋さんへ足を運んで、何か気づくことはないかとリサーチしています。 遠くにあるお店へ行くのは、交通手段(と使えるお金さん)が限られた学生には厳しいものがあり…