ディスカバー・ニッケイ

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新舛 育雄

(しんます・いくお)

@IkuoShinmasu

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)


この執筆者によるストーリー

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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第6回 シアトル航路の貢献

2022年7月1日 • 新舛 育雄

前回は領事に対する期待に関する記事について紹介した。今回はシアトル航路開設の経緯と1918年頃のシアトル航路と大陸横断鉄道に関する記事ついてお伝えしたい。 シアトル航路開設 シアトルと横浜をつなぐ日本郵船のシアトル航路は、1896年に開始。これを機に、シアトルの日系移民が急増していった。 日本郵船シアトル出張所副長の中瀬精一氏がシアトル航路開設につき、1920年1月1日号で当時の様子を次のように語っている。  「沙(シアトル)市と郵船会社」(1920年…

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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第5回 領事への期待

2022年5月6日 • 新舛 育雄

前回は1919年の『北米時事』の記事「一日一人人いろいろ」で紹介されたシアトルの日系社会で活躍した人達について紹介した。今回は、1901年に設置されたシアトル領事館に派遣された数人の領事について紹介する。 * * * * * シアトル在留日本人の支えとなったのが、領事の存在だった。第1回で1901年にシアトルに領事館が設置されたことをお伝えしたが、それ以降1941年までに13人の領事(領事代理等除く)が日本政府からシアトルに派遣された。シアトル領事館はワシントン州、モン…

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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第4回 シアトルで活躍した人達

2022年4月29日 • 新舛 育雄

前回は1917年以降のシアトルでの日本人ビジネスの発展に関する記事を紹介したが、今回はシアトルで活躍した人達について紹介したい。 「一日一人人いろいろ」1919年 1919年1月から2月に渡り「一日一人人いろいろ」と題して発展したシアトルでいろいろな分野で活躍する人達の紹介が、毎日一人ずつ掲載されていた。各氏の功績、隠れた一面などがユーモラスに書かれている。この中からいくつかの記事を取りあげたい。 第5回 平出亀太郎(平出商店) [1919年1月8日号より] 「…

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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第3回 シアトルの発展と日本町の繁栄

2021年12月15日 • 新舛 育雄

前回は1890年頃にシアトルに渡り日本人元祖とよばれた森田万次郎と古屋政次郎についてお伝えした。今回は1917年以降のシアトルの著しい発展と、日本町の繁栄に関する記事を紹介したい。 シアトルの急速な発展 第一次世界大戦以降、シアトルは軍事産業や造船業が非常に繁栄し、貿易港として1917年以降著しい発展を遂げた。シアトル貿易額(輸出入額)は1912年から1916年までの4年間は米国内第9位だったが、1918年にニューヨークについで第2位に駆け上がり、太平洋沿岸では…

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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第2回 シアトル日系移民の元祖

2021年9月22日 • 新舛 育雄

前回は1850年頃からの初期のシアトルの様子に関する記事についてお話ししたが、今回は1890年頃に日本人として初めてシアトルへ渡った、日本人元祖の記事についてお伝えしたい。 日本人ビジネスの元祖 1890年頃、日本人がシアトルに渡りいろいろな事業を開始した。これらの人達が、その後のシアトル日本人社会の基盤を作り上げていった。『北米年鑑』1928年版には、シアトル日本人諸事業営業の元祖として様々な事業を開始した人が紹介されている。その中に挙げられている森田万次郎と古屋政次…

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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第1回 19世紀のシアトルと日系移民

2021年8月18日 • 新舛 育雄

『北米時事』は、シアトルで1902年から日米開戦まで発行されていた邦字新聞だ。ワシントン大学図書館でマイクロフィルム・アーカイブが保管されている。ワシントン大学東洋図書館司書のスコット・エドワード・ハリソン氏が2004年に同紙を調査研究し、現存する紙面がアーカイブされた。2019年6月から北米時事を前身とする『北米報知』とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」を日英両言語で連載した筆者は、同アーカイブがウェブサイト上で閲覧できることを知り、オンラインで…

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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー
最終回 與の再渡航と家族のその後

2020年5月27日 • 新舛 育雄

前回は、與右衛門死後のアキの奮闘と姉妹の再渡航についてお伝えした。今回は、長男、與(あたえ)の再渡航と家族のその後についてお話し、最終回としたい。 與の再渡航 與は、父親の與右衛門が死亡したため、1929年2月に母親のアキと日本へ帰国した。その後は蒲井で生活し、日本の学校へ通った。子供の頃に一旦は日本へ戻り小学校へも通っていたバイリンガルの與には、日本の学校生活も平気だった。帰国の翌年1930年4月に、本土にある柳井中学(現在の柳井高校)に入学した。柳井中学は山口県でも…

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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー
第11回 アキの奮闘と姉妹の再渡航

2020年4月22日 • 新舛 育雄

前回は與右衛門の不慮の事故死とシアトルから蒲井への悲しみの帰国についてお伝えした。今回は妻のアキがその悲しみから立ち上がり、再度シアトルへ向かい、姉妹も再渡航したことをお話ししたい。 アキの理髪業の再開 與右衛門の死後、アキは空虚な悲しみの日々が続いた。アキは、このまま蒲井にいて田畑を耕していてもしかたないと考えはじめた。與右衛門が亡くなって2年の歳月が過ぎた頃、もう一度シアトルへ行き、一稼ぎしようと決断した。 アキは再起を期して、1931年1月の正月明けに、蒲井…

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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー
第10回 無念の事故死と悲しみの帰国

2020年3月25日 • 新舛 育雄

前回は與右衛門を支えた日本人会と與右衛門がホテル開業を前にした日々の様子についてお伝えした。今回は、與右衛門の無念の事故死を遂げることをお話ししたい。 不慮の事故に遭遇 1928年12月2日、日曜日の朝。與右衛門は、自宅のニューセントラルホテル(地図右下)を出ていった。しばらく歩いてオクシデンタル街に購入したホテル(地図左)の見回りに行った。この日は翌日月曜日からのホテル開業を控え、準備しておかなくてはならないことがいくつかあった。與右衛門は、その頃には夜寝るのも遅…

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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー
第9回 日本人会と最期の日々

2020年2月26日 • 新舛 育雄

前回は山口県からの移民と郷里送金のこと、與右衛門が蒲井に新築の家を建てたことをお伝えしたが、今回はシアトルで與右衛門を支えた日本人会と與右衛門の最期の日々についてお伝えしたい。 與右衛門を支えた日本人会 シアトルという異国の地で與右衛門が理髪業に成功し、更にホテル業へと飛躍できた背景には、日本人会という強力なコミュニティの存在があった。シアトルに居住する日本人は、1899年2月に日本人会を発足した。当初は個人会員制であったが、1907年に県人会や理髪業組合等の代表者が集…

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