ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/940/

波風を立てるな (日本語)

(日本語) 私が聴聞会から受けた影響はとても大きかったと言えます。でも、先にお話しした通り、当初は気が進みませんでした。私は「真のアメリカ人」として、他のアメリカ人と同じように、アメリカ社会の一員で居たかったのです。私たちが強制収容所を出た時、戦時転住局(WRA)の人から、面倒は起こさないように、目立たないようにしているよう言われていました。そして、集会を開くことも禁止だと告げられ、私たち日系人のほとんどは、その通り本当におとなしくしていました。その後私は大学に通うようになり、勉強だけ熱中しようと思っていましたが、一連の運動への参加をきっかけに、私自身戦時中の出来事も受け入れられるようになり、率直に私自身の意見も言えるようになりました。


アイデンティティ 第二次世界大戦下の収容所

日付: 1997年9月11日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ベッキー・フクダ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

チエ・トミヒロ氏は、オレゴン州ポートランド出身です。第二次世界大戦が勃発したのは、彼女が16歳の時でした。トミヒロ氏の父は日系アメリカ人商工会議所の元会長だったため、彼はすぐにFBIに拘束されました。トミヒロ氏は、ポートランド集合センターに収容された後、アイダホ州ミニドカ収容所に送られました。その後、ニューメキシコ州の刑務所(司法省管轄の収容所)に3年間収監されていました。

戦後、再会を果たしたトミヒロ氏一家は、コロラド州デンバーに移り住み、その後イリノイ州シカゴに住居を構えました。彼女は、米国日系人市民協会(JACL)シカゴ支部のメンバーとして活躍しました。1981年、シカゴは、連邦政府のCWRIC(戦時民間人転住勾留委員会)が行った、公開聴聞会の開催地の1つとなりました。シカゴ支部における補償委員会の委員長を務めたトミヒロ氏は、公聴会で戦時中の体験を語ってもらうべく地域の日系有志を集めました。1983年、CWRICは日系人の強制収容は軍事的必要性によって正当化できるものではなく、強制収容を引き起こしたのは、「人種的偏見、戦時ヒステリー、政治的指導者の失政」であった、と結論付けました。 (2008年4月15日)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

甥との対話から生まれた小説 (英語)

作家(1934年生)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

10代のサトウキビ畑で働いた経験が、スポーツ選手としてのトレーニングに役立つ

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

ロイ・H・マツモト

ニックネーム(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ジョージ・アベ

出生地のもつ意義に気づいて (英語)

太鼓・尺八奏者(1944生)

ロイ・H・マツモト

日本との戦争に対する何ともいえない感情(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ジョージ・アベ

収容所の中で才能を磨く (英語)

太鼓・尺八奏者(1944生)

ロイ・H・マツモト

アーカンソー州にあるジェローム転住センターへ汽車による移動(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所の話ではなく人間ドラマ(英語)

作家(1934年生)

グレース・アイコ・ナカムラ

収容所でラリーが椅子をデザイン(英語)

カーデザイナー、ラリー・シノダの姉

リチャード・コサキ

ワイキキで育った経験(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

ロイ・ヒラバヤシ

太鼓演奏の哲学(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

ジェロ (ジェローム・チャールズ・ホワイト Jr.)

母と祖母を見て学んだ日本の伝統(英語)

演歌歌手(1981年生)

ロジャー・シモムラ

戦中の体験を尋ねたときの父の否定的反応(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)

モニカ・小木曽

日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ピーター・ミズキ

目立ちたくない外国人(英語)

在日三世・剣道家