https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/933/
ジャーナリスト (1915 - 2007年)
(英語)収容所におけるフェンスの有無は、重大な問題でした。収容者がフェンスに囲まれていることが、集合センターでの人々の苛立ちの原因の1つだったのです。日系人がハート・マウンテン収容所に送られたばかりのころ、収容所にフェンスはありませんでした。フェンスを建てる必要性はなかったのです。なぜならその土地は、ヤマヨモギの中を20マイル歩き続けても、どこにもたどり着かないような場所でした。人々が収容所の生活に慣れると、軍は有刺鉄線のフェンスで敷地を囲み、見張り塔を建てることにしました。そして収容所の日系指導者たちは、フェンスを取り外すよう請願書への署名活動を行ったと記憶しています。そして集まった署名を、WRA(戦時転住局)に送りました。
この出来事は収容所新聞(ハート・マウンテン・センチネル)で取り上げなければならない重大なニュースでした。我々はそのニュースを、新聞の一面トップの見出しにしました。同時に私たち記者には、その記事が収容者の怒りを助長し、何かの事件を引き起こすことのないよう配慮し、記事を書く責任もありました。もし事件が起これば、かなり危険な事態に陥っていたでしょう。ですから私たちには、挑発的ではない内容の記事を書く責任がありました。そのニュースを中立的に扱いながら、1面記事のトップに載せることで、私たちはその責任を果たすことが出来たと考えています。客観的に書かれた記事の掲載により、結果的に読者満足を得ることができたのです。
日付: 2001年7月13日
場所: 米国、ワシントン州
インタビュアー: アリス・イトウ、ダリル・マエダ
提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.
ビル・ホソカワ氏は、1915年ワシントン州シアトルに生まれました。ホソカワ氏は若くしてジャーナリズムに関心を持つようになりましたが、ワシントン大学在籍中、担当教授は彼に、ジャーナリズム専攻をやめるよう促しました。当時のアメリカには、日系人を雇ってくれる新聞社はないだろう、ということがその理由でした。ホソカワ氏は、その助言を拒否しましたが、1937年の卒業と同時に、教授の言葉が正しかったことを悟りました。
1938年、ホソカワ氏は英字新聞の立ち上げに携わるため、シンガポールへ赴きました。その後彼は中国の上海に移り住み、アメリカの雑誌社で働きました。彼がシアトルへ戻ったのは1941年、真珠湾攻撃の5週間前でした。
ホソカワ氏は、妻と当時まだ乳飲み子だった息子と共にワイオミング州のハート・マウンテン強制収容所に収容されました。彼は収容所新聞、「ハート・マウンテン・センチネル」の編集者となりましたが、後にアイオワ州デモインの新聞社に雇われることになり、収容所から釈放されます。1946年、ホソカワ氏はコロラドに移り住み、その後38年に亘りデンバー・ポスト紙の編集者を務めました。
ホソカワ氏は強制収容の体験をもとに複数の本を出版し、パシフィック・シチズン紙では、差別を題材としたコラムを50年以上担当しました。ホソカワ氏は2007年に92歳で亡くなりました。 (2008年4月5日)
囚人のように思えた収容所生活(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
制度化されたシステムの悪影響(英語)
1944年の大統領選挙後まで収容所を続けた政治的理由(英語)
徴兵反対者に対する日系コミュニティの反応(英語)
徴兵忌避者(1925年生)
世論に影響を与えるメディアの役割(英語)
徴兵拒否により服役した刑務所での生活環境 (英語)
戦時中の徴兵拒否について子供たちへ伝えること (英語)
「国家への忠義に関する質問」に対する葛藤 (英語)
強制収容に対する日系アメリカ人の反応について(英語)
強制収容の過去について話す母とその感傷的な反応 (英語)
弁護士 (1946年生)
二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)
テキサス州クリスタルシティーで別人の様になっていた父との再会 (英語)
教師(1937-2021年)
テキサス州クリスタルシティーでの生活環境 (英語)
テキサス州クリスタルシティーで過ごした幼年期の思い出 (英語)
テキサス州クリスタルシティーでの日系ペルー人と日系アメリカ人の関係について思うこと (英語)