ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/920/

歴史は変化し続ける(英語)

(英語) そうですね。補償請求運動をやっているうちに、それまでなかなか口を開かなかった人たちがこれらの問題について語り始めたことは、私にとって興味深いことでしたね。そして最終的には、我々も彼ら一人ひとりと論理的に議論できるようになりました。コミュニティが分裂している所は今でも一部ありますが、それでも過去の出来事に共通点を見出し、話し合いができるようになっています。ですから、一連の補償請求運動には二次的効果がたくさんあったと言えます。そしてこの事実は、結果的に三世に良い影響を与えると思います。三世は親の世代に何が起こったのかを知り、それによって、自分の両親の社会問題に対する考え方、社会とのかかわり方、組織などに対する考え方がどのように確立されたか、理解することができるようになると思います。そういう意味で、日系アメリカ人史は過去30年かそれくらいの間に随分進化したと思いますね。


公民権 公民権運動 リドレス運動

日付: 1999年10月28日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: トム・イケダ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ヘンリー・ミヤタケ氏は、1929年ワシントン州シアトルに生まれました。第二次世界大戦中まだ10代であったミヤタケ氏は、ピュアラップ集合センターに拘留され、その後アイダホ州ミニドカに強制収容されました。強制収容所でミヤタケ氏は、米国政府によるマイノリティの扱いを批判する論文を書き、その主張の正当性を訴えましたが、教師は論文の受け取りを拒否し、合格点を与えなかった為、ミヤタケ氏は卒業することが出来ませんでした。

当初、彼の考えは急進的なものでしたが、ミヤタケ氏は、70年代前半から始まった補償請求運動の最初の発起人の1人になりました。他の数名の日系人と共に、米国政府に対し、強制収容された日系アメリカ人への補償を求めるため、日系アメリカ人市民同盟シアトル支部にその計画案を準備したのもミヤタケ氏でした。

しかし1978年11月25日にピュアラップ集合センター跡地で開催された最初の「追憶の日」のイベントまでは、ミヤタケ氏の努力は、日系コミュニティから反発を受けていました。ミヤタケ氏が参画し、開催にこげつけたこのイベントは、過去の不正を正すために組織されたその後の補償請求運動において、日系社会を大いに活気づけるものでした。

ミヤタケ氏は、2014年9月16日、85歳で亡くなりました。(2015年4月)

チェリー・キノシタ

賠償金請求の必要性 (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

チェリー・キノシタ

苦しみを乗り越えて (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

ビル・ホソカワ

賠償(リパレーション)から補償(リドレス)へ (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

ビル・ホソカワ

証拠の強み (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

チエ・トミヒロ

聴聞会の証人委員としての役割 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

今後すべきこと (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

バート・ナカノ

補償運動への参加者の増加 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

バート・ナカノ

ワシントン政界の説得 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

バート・ナカノ

大衆の力 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

ジョージ・ヨシダ

三世と補償運動(英語)

音楽家 (1922年)

ウィリアム・マルタニ

補償金額の算出(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

CWRIC委員就任の決断(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

イノウエ上院議員による CWRIC委員の選考について(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

日系委員としての個人的感情(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事