ディスカバー・ニッケイ

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日本式の教育 (スペイン語)

(スペイン語) 私はかなり高齢なので、今だからこそ言えることがあります。当時の日本語学校での日本語教育というのは、日本からの日本教育で、内容や教授方法がきちんと決められていたようです。日本の教育省の方針だったようですね。我々のような子供たちを半日本兵として育てることが目的だったのです。

なぜこのようなことを言うかって?あれは、私が6歳、小学校に入った時のことですね。朝は毎日「ラジオ体操」で始まり、その後は校長先生のお話でした。壇上に上がり、生徒に向けてスピーチをするのです。「全校生徒の皆さん。昨夜、いや昨日は○○が起きました」って。戦況ニュースみたいでしたよ。特に戦争が始まったばかりの頃は、「陸軍はXXへ進行し、どこどこをを制圧したのだ。これが日本陸軍の精神なのだ!日本万歳!万歳!」って。そして、みんなで大声で万歳をしたんです。 次第に、日本の帝国軍がアジア各地に進攻していることも分かるようになりました。

当時、我々はまだ6、7、8歳ぐらいでしたけど、なぜ年端も行かぬ子供たちにあんなことを話していたのでしょうね。もちろん、当時の日本の状況を理解する必要があったんでしょうけどね。まあ、このような日本式の教育を受け、躾も日本式でした。だから、我々はとても規律正しく、礼儀作法もしっかりしていました。曲がったことが大嫌いで、目上から何か指示があれば「はい」と答えるだけでした。当然、議論する余地などまったくありませんでしたよ。


日本語学校 語学学校 ペルー

日付: 2007年9月6日

場所: ペルー、リマ市

インタビュアー: ハルミ・ナコ

提供: ペルー日系人協会 (APJ)

語り手のプロフィール

ベナンシオ・シンキ・ウアマン氏はペルーのリマ市郊外スペ地区に1932年に生まれました。画家として最も功績を残している日系ペルー人のひとりです。父親のキツケ・シンキ氏は広島県出身で、母親のフィロメナ・ウアマンは地元ペルー人の方です。多くの日本人移住者が入植したリマ北部のスペという町にあるサンニコラス農場で生まれ育ちました。同氏はペルーの国立美術大学に進学し、1962年に首席で卒業しています。

シンキ氏の作品には東洋、西洋、そしてアンデスの伝統文化の要素が組み込まれています。未知で好奇心をそそる世界を特徴ある超現実主義(シュールレアリズム)のスタイルで表現し、洗練された技術とそれまでにない像を描いたことで、ラテンアメリカの造形芸術の巨匠達と肩を並べることになったのです。 世界的にも表彰され、ペルー、日本、イタリア、アメリカ、コロンビア、エクアドル、ブラジル、ベネズエラ、パナマ、メキシコ等各地で個展や共同での展覧会に参加してきました。1999年には、ペルー日本人移民100周年記念事業の一環として名古屋の博物館でも展示を行いました。2006年11月リマで開催された第34回の「日本文化週間」では、多数の作品が展示されました。シンキ氏は、2016年に亡くなりました。 (2017年10月)

ミシェル・ヤマシロ

日本人がペルーへ移住した理由 (英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

ペルー系沖縄人としての両親のアイデンティティ(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

本州の人々の沖縄人に対する偏見(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

三か国語を使った沖縄での活動(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

隣人の庭で日本語学校を始めた母(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ジミー・ナガヌマ

ペルーから米国へ強制連行(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

ペルーでの子供時代の思い出(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)