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ブラジル日系移民の母 (1900-1996)
戦争が済む前に、本当にあの、私なんか、ポリシア(警察)へ呼ばれ、軍部へ私なんか、私と高橋さんなんかと呼ばれまして。宮越さんも入っておりましたし、石原桂三さんももう早く帰っておって。二人が外でおったわけで、働いてね。それで、呼ばれていきましたら、ちょうどひどい質問されまして、5時間も立たされましてね。それで、全部聞くんですよ。シンバさんのことから、いろんな出来事から、全部、むこうで聞きになる。こっちで返事しなくちゃいけない。それでいろんなものを聞きまして、終いにはどっからか、その仕事をするのにどっから金がきたかっていうんですよ。それは全部話しまして。ただ商社の4件から頂いたことは、商社のみな働いてる人から集めて寄付を頂きましたって言って。それで通ったんで、なぜかってその時はリキダソン(?)が各商社へ入ってましたから、そういったら返さなくちゃいけなかったんです。それでちょっとの間、それ考えまして、言ったのが助かったんです。5時間もすみましたら、それを全部読み上げまして、ところがその中に、私が申し上げないこと書いてあるんです。「それは言いませんでした。」「言った」、「言わない」っていう風に、二人で喧嘩みたいにしましてね、終いには怒って消しました。 最後にもね、私が育ってくださったファミリア(家族)のこと書いてあったから、「そんなこと全然話しませんから、消してください」って。それはもうなんとなく消しました。それで終いにはね、何枚って書いたそれにサインせいってサインしました。そしたら出るときにね、「人に言っちゃいけないって、ポエ・ジッペル・ナ・ボッカ (だまっていろ)」って言ってね。
日付:
場所: ブラジル
提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.
「日系移民の母」として知られるマルガリーダ・トミ渡辺(旧姓:池上)は1900年鹿児島県に生まれました。10歳の時、近所の家族がブラジルに移民することを知り、一家の負担を軽くするためにとブラジル行きを決意しました。1912年3月「神奈川丸」にてサントス港に到着し、すでにブラジル入りしていた叔父の下へ身を寄せました。まもなくしてフランス系の医師の一家へ家庭奉公として引き取られました。が、親子のようにかわいがられ、18歳の時にマルガリーダという洗礼名を授かりました。1928年に日本人初の公認会計士である渡辺氏と結婚しました。
第2次大戦中は、日本人ゆえに拘束、検挙される同胞を目にし、同じ敵性国民という難しい立場であるにもかかわらず、救済活動を行うことを決意し、1942年6月には「カトリック日本人救済会」を発足しました。戦後も社会奉仕の活動を続けており、1958年、日系人を対象にした老人ホーム「憩いの園」を開園。現在でも一世の老人ホームとして健在です。1996年95歳にて亡くなりました。
彼女の半世紀にわたる社会福祉における貢献に対し、吉川英治文化賞(1992年)や朝日社会福祉賞(1993年)などさまざまな賞が送られています。(2007年6月22日)
囚人のように思えた収容所生活(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
制度化されたシステムの悪影響(英語)
1944年の大統領選挙後まで収容所を続けた政治的理由(英語)
徴兵反対者に対する日系コミュニティの反応(英語)
徴兵忌避者(1925年生)
世論に影響を与えるメディアの役割(英語)
徴兵拒否により服役した刑務所での生活環境 (英語)
戦時中の徴兵拒否について子供たちへ伝えること (英語)
「国家への忠義に関する質問」に対する葛藤 (英語)
強制収容に対する日系アメリカ人の反応について(英語)
強制収容の過去について話す母とその感傷的な反応 (英語)
弁護士 (1946年生)
二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)
テキサス州クリスタルシティーで別人の様になっていた父との再会 (英語)
教師(1937-2021年)
テキサス州クリスタルシティーでの生活環境 (英語)
テキサス州クリスタルシティーで過ごした幼年期の思い出 (英語)
テキサス州クリスタルシティーでの日系ペルー人と日系アメリカ人の関係について思うこと (英語)