ディスカバー・ニッケイ

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渡伯初期の生活

Copeiro(執事)とJardineiro(庭師)。だから朝の5時ごろから晩の12時頃まで。朝早く起きましてね、みんなお茶の用意して。晩はみんながお茶、カフェ飲んで寝れるまでおらなきゃ。まぁだから朝の5時ごろから、晩の12時過ぎるまで働いたんですけども。

しかし人として扱ってくれましてね。1年おって、おかげであの何ができましてね、ちょっとお金ができまして。それからサンパウロへ帰りましてね。サンパウロで1年間学校はいるだけの金ができたわけ。

それからね、いろいろ方々出ましてね、あの方々・・・・あのブラジルの工場を渡り歩きまして。1年、2年ぐらいおりましたか。それで結局結婚したもんですから、もう子供ができまして、食えなくなったからもう仕方なしに、今度は田舎へ行かなきゃいかんと。で、ポンペイアへきたわけです。


ブラジル 移住 (migration)

日付:

場所: ブラジル

提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.

語り手のプロフィール

西村俊治氏は、1932年21歳の時、日本の経済状況をみかね、新天地を求めブラジルへ移住を決意しました。移住当初は、持ち前の忍耐を持って耕地で働きました。まもなくして1年間学校へ通うのに十分な資金もたまり、サンパウロ市へ上京しました。その後、ブラジルの工場を転々とし、最終的にはポンペイアへ落ち着きました。

西村氏は、生活のためさまざまな職業を経験・挑戦してきました。農機具の特許取得がきっかけに、JACTOグループを創設しました。当時のブラジルは海外からの農機具に頼っていましたが、輸入品よりも質のよいものを提供しようと、農機具の開発に力を注いできました。JACTOグループがここまで大きくなったのは、ブラジルのおかげと、職業訓練学校を設立しました。農機具の開発だけでなく、それをうまく使える技術者を育てることが、国の発展の第一歩であるとし、農業専門家を育てるのに力を注いできました。(2007年6月22日)

ミツエ・ヤマダ

写真花嫁の集団と一緒にアメリカに渡った母(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ミツエ・ヤマダ

日本から到着した母のためにアメリカの洋服を買った父(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)