ディスカバー・ニッケイ

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借金の取立てにうんざりしブラジル移民を決意

私は工業学校出ましてね。そして、親父がそのメタン工場っていってね、その粘土で作る、作って、それを炭のかわりに使うのを作る会社を作ってたんで、その手伝いを1年ほどしたんです。しかし不景気でね、もううまくいかないで。毎日借金取りばっかしで。それでもうその借金取りも断りじゃ、これじゃもうどうもならんと思いましてね。何とかこう外国に来たいと思ってた。そのとき調度、そのブラジルと日本とが、提携して移民を送っておりまして、その移民の中に入れてもらって来たんです。


ブラジル 移住 (immigration) 移住 (migration)

日付:

場所: ブラジル

提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.

語り手のプロフィール

西村俊治氏は、1932年21歳の時、日本の経済状況をみかね、新天地を求めブラジルへ移住を決意しました。移住当初は、持ち前の忍耐を持って耕地で働きました。まもなくして1年間学校へ通うのに十分な資金もたまり、サンパウロ市へ上京しました。その後、ブラジルの工場を転々とし、最終的にはポンペイアへ落ち着きました。

西村氏は、生活のためさまざまな職業を経験・挑戦してきました。農機具の特許取得がきっかけに、JACTOグループを創設しました。当時のブラジルは海外からの農機具に頼っていましたが、輸入品よりも質のよいものを提供しようと、農機具の開発に力を注いできました。JACTOグループがここまで大きくなったのは、ブラジルのおかげと、職業訓練学校を設立しました。農機具の開発だけでなく、それをうまく使える技術者を育てることが、国の発展の第一歩であるとし、農業専門家を育てるのに力を注いできました。(2007年6月22日)

ロベルト・ヒロセ

ハーフ日系(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ロベルト・ヒロセ

少数の日本人家族と共に育って(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ロベルト・ヒロセ

ラテンアメリカにおける日系人の多様性(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ジョン・ナカ

徴兵回避のためアメリカへ帰国(英語)

日系アメリカ人二世、盆栽マスター(1914-2004年)

赤間みちへ

ブラジル移民の目的

一世。ブラジル女性教育の先駆者

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父のアルゼンチン移住 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

外間良広

日本からアルゼンチンへ

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

外間良広

移住当初、言葉で苦労

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

高木一臣

日本を離れ、いざアルゼンチンへ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

彼をアルゼンチンに留まらせたタンゴ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

アルゼンチンへの渡航(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

ルイス・ヤマダ

戦後、アルゼンチン定住を決意(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

ルイス・ヤマダ

戦後アルゼンチンに戻る(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

ルイス・ヤマダ

運の強い男(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

木下正夫

『負け組み 』-日本敗戦認識運動

負け組みの主要メンバー