ディスカバー・ニッケイ

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日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)

(英語)公文書を見ると、国務省が日系人収容者の取り扱いにかなり神経をとがらせていたことがよく分かります。(当時の)大日本帝国が(日系人収容者をひどく扱っていると)知れば、日本で捕虜となっているアメリカ人に危害を加える可能性、いわば報復状態になる可能性が充分にあったからです。ですから国務省はアメリカにいる日本人と日系人を適切に取り扱うよう慎重に対応していました。そうすれば、日本で捕虜となっているあるいは拘留されているアメリカ人も同じように扱ってもらえるのですから。そんなわけで、国務省は収容者をひどく扱うようなことは絶対に許しませんでした、だから陸軍長官だったヘンリー・スティムソンにもそんなことは絶対させないと言ったんです。

これはミチ(・ニシウラ・ウェグリン)の著書に出ているものですが、報復の可能性を示唆したスティムソンの手紙が実際に残っていて、日本側が(同国にいる)アメリカ人を不当に扱った場合は、私たち(収容所にいる者)への報復措置も辞さないと脅しているんです。(政府の高官はアメリカ人捕虜の扱いに)それだけ懸念を抱いていたんです、結果的に(アメリカ人捕虜に)何も起きなかった。言い換えれば、(そのような懸念を抱かなければ)私たちも銃剣を突きつけられ強制的に収容所に入れられることはなかったということなんです。これは間違いないと思います。


政府 政治 囚人 戦争捕虜 第二次世界大戦

日付: 1998年8月26日

場所: 米国、バージニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

アイコ・ヨシナガ・ハージックは1924年、カリフォルニア州サクラメントに生まれました。熊本県出身のヨシナガ一家は、1919年に渡米し、世界恐慌の頃にカリフォルニア州ロサンゼルスへ引っ越しました。

第2次大戦中、初めは夫の家族とともにマンザナーへ収容されていました。その後、夫と離れ、生まれたばかりの娘と共に、実父母の収容されていたアーカンソー州ジェローム収容所へ転送されました。1944年、ヨシナガ一家は収容所を出てニューヨークへ移り住みました。その後、夫と離婚しますが、2世兵士と再婚しました。アイコは、占領下の日本で従軍することになった2番目の夫とともに、日本へ移り住みました。そこで夫の同僚であるジャック・ハージックと出会い、その後1978年に彼と結婚しました

アメリカ帰国後、Asian Americans for Actionの活動に参加するようになりました。補償運動の際は、夫ジャックとともにワシントンDCの国立公文書館で資料を集め、とても重要な役割を果たしました。公文書館からの資料はフレッド・コレマツ、ミノル・ヤスイ、ゴードン・ヒラバヤシの判決を取り消すための再審請求(coram nobis)でも重要な証拠としても提示されました。また、アイコはCommission on Wartime Relocation and Internment of Civilians(戦時中の民間人転住と収容 に関する委員会)の主要な調査員として任命され、法務省のRedress Administration(補償運動管理局)で補償金の受け取りが可能な個人を特定などに携わりました。 

2018年7月18日、93歳で亡くなりました。(2018年7月)

George Kazuharu Naganuma
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ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

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Kazumu Naganuma
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カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

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Mia Yamamoto
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ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

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