ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/343/

強制移住(英語)

(英語)確か重さ60ポンド(約27㎏)分だったかしら・・・(収容所へは)あまり沢山の荷物は持って行けませんでした。ほんの少しの衣類とあとは手で持ち運べるものぐらいですね。(退去命令が出たとき)みんなが一斉にダッフルバッグを買ったので売り切れてしまい、私達家族は自分達でバッグを作らなくてはなりませんでした。そして私達は電車に乗るためケントに行き・・・レントンだったかしら?どっちだったかはっきりしませんが・・・ それはいいとして、姉は(仕度が)遅れて(一緒には出発できず)まだ家に残っていて、確かトール・セイキという男の子と一緒に、私達を(駅まで)見送りに来たのを覚えています。

皆が(電車に)荷物を積み上げていて、それはひどい光景でした。兵士たちに囲まれ、まるで難民集団のように、みんな困惑して何が起きているか分らないという様子でした。電車の中で座る場所を指定され、あとは単に(兵士たちに)言われた通りのことをするんです。まるで(悪い)夢でも見ているようでした。あんなことが起きたなんて今でも信じられません。子供達は「何でこんなことをしなくちゃいけないの?」「どうして?」としきりに聞いていました。兵士たちは私達を電車に連れて行き、「ここがあなた達の席です、昼も夜もずっとここにいなさい」と言いました。


投獄 監禁 第二次世界大戦

日付: 2004年9月15・17日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ペギー・ニシムラ・ベインは1909年3月31日ワシントン州バションに生まれました。彼女の両親は熊本県出身です。6人兄弟の2番目として生まれた彼女は、17歳の時に最初の結婚をし、息子と娘をもうけました。

真珠湾攻撃の時は、弟の名義の3つの農場で両親の手伝いをしていました。その後、パインデール集合センターへ送られたあと、ツールレイク、ミニドカ収容所へと転送されました。ミニドカ収容所を出た後は、娘とともにシカゴへ移住しました。そこでは、収容所で身につけた写真の技術を使い、何年もの間写真スタジオにてコロリスト(写真へ色づけする人)として働いていました。最終的にはワシントン州の両親の近くへ戻り、現在もワシントン州で生活しています。(2004年9月17日)

マリオン・ツタカワ・カネモト

先生から聞いた反アメリカプロパガンダ(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

第2次大戦中の日本での苦難(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

フレッド・ササキ

第二次大戦中の排日感情(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

パット・アダチ

スロカン日系カナダ人収容所での家族生活(英語)

第2次大戦中の収容経験あり。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

制度化されたシステムの悪影響(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

フランク・ソギ

1941年12月7日の記憶(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

MISで出会った本土からの日系人(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

当時の収容所に対する認識(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フレッド・コレマツ

犯人探し (英語)

大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)