ディスカバー・ニッケイ

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真珠湾攻撃後のプランテーションの対応

なんて言っていいかわからんよに、悲しかったですよね。でもプランテーションがよーくしてくださったから。毎日あの、マスクでも皆私らにくれてからね。そして毎朝仕事に、集まるとこに行ってからね、そしてプランテーションの人が、ボーシ(ボス)が外人にだけこう書いたの渡すんですよね。そして私らも日本人だからくれられんのか思ってから、その人に問うてみたんですよ。そしたら、この日本人は日本におる人と違う皆いい日本人だから、この人たちに何も悪いことを言っちゃはいけないって書いておるんだってね。それでもうありがたいんでからね。さっきのうちはどうして私ら日本人だからあんなんされる思っとったんですよ。そうじゃなかったの。


世代 ハワイ 移民 移住 (immigration) 一世 日本 移住 (migration) 真珠湾攻撃、ハワイ、1941年 アメリカ合衆国

日付: 1991年6・7月

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ロバート・ナカムラ、カレン・イシズカ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1900年生まれの福岡県出身の笠原さんは、先にハワイへ移住していた両親に1919年に呼び寄せられた。移住当時はホームシックで毎日泣き明かしていたという彼女は、砂糖きびプランテーションで日給55セントで働いた。

笠原さんは1922年に、プランテーション労働者とお見合い結婚をした。夫は再婚で、最初の奥さんは亡くなり、二人のお子さんをもうけていたが、笠原さんと結婚したときは、二人の子供たちは日本へいた。笠原さんはその夫との間に6人の子供をもうけたが、うち2人をまだ小さい時に亡くした。(1991年7月)

Sawako Ashizawa Uchimura
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サワコ・アシザワ・ウチムラ

真珠湾攻撃後、ゲリラ兵による捕獲(英語)

フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)

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Juan Alberto Matsumoto
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ファン・アルベルト・松本

父がアルゼンチンへ移住した理由

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

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Kazumu Naganuma
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カズム・ナガヌマ

親のペルーへの移住

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

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Kazumu Naganuma
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カズム・ナガヌマ

テキサス州ラレドの拘置所にいるヒスパニック系移民家族について

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

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Masato Ninomiya
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二宮 正人

たわし工場労働者から洋服の仕立て屋へ

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

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Masato Ninomiya
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二宮 正人

初期の日本人移民の職業

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

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Sabrina Shizue McKenna
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サブリナ・シズエ・マケナ

マリー・ミルクス判事 - 彼女のヒーローであり指導者

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。

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