ディスカバー・ニッケイ

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サンフランシスコで受けた差別

サンフランシスコに着いて、アパートメントですね、やっぱり見つけますよね。それで今覚えてるのは、やっぱりすぐに貸していただけませんでしたね。やっぱり断られるでしょ。そういう時やっぱり、ああやっぱり、黒人とか日本人には、そんなにすぐにね、貸さないんだなぁと思いましたね。顔見たりするとね、困ったなぁっていうような顔して断るんですよね。電話の時はオーケーって言ったから、主人と私と子供2人連れて行くんですけども、着くとね、ちょっとこう話しが違うように断るんですね。

でも運良く、妹さんがいたんですよ。うちの妹さんと妹さんのご主人がアパートを持ってたんですね。それでそこに住んで、そして少し経って自分たちのアパートメントに住んだんですね。


カリフォルニア州 差別 対人関係 戦後 サンフランシスコ アメリカ合衆国 第二次世界大戦

日付: 2015年2月6日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 田中 泉

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1937年、横浜で10人兄弟の5番目として生まれる。戦時中は東京の郊外で育ち、民間エンジニアとして米軍基地で働いていた夫のエドワード・E・キャロウェイと結婚。2人の子供が生まれた後、1960年に一家で米国に渡る。サンフランシスコのベイエリアに落ち着き、もう2人子供を授かり、その後ロンポック市に移る。娘2人、息子2人の4人の子供たちは、同市で育つ。1977年にイングルウッド市に引っ越し、以降同市在住。2009年に夫のエドワードが亡くなり、現在は介護の仕事をしている。(2016年5月)

アルフレド・カトウ

日本人に対するステレオタイプ: 昔と今(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

ジョージ・カツミ・ユザワ

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジョージ・カツミ・ユザワ

戦中のニューヨーク市での最初の印象(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジョージ・カツミ・ユザワ

真珠湾攻撃後の近所の同情(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

飯野正子

日本人移民に興味を持ったきっかけ

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

PJ・ヒラバヤシ

子供のころ体験した差別(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・製作監督

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

オーシャンパークでの唯一の日系人家族(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

映画制作で行った小細工(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

終わることを知らない人種差別 (英語)

作家(1934年生)

モニカ・小木曽

アイデンティティ・クライシス(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

藤間勘須磨

日本ではアメリカ人として、アメリカでは日本人として踊る (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

ニューヨーク市の日本人に対する戦争ヒステリア(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

ジャック・ハージック

人種ゆえにより説得力を持った証言(英語)

元米国陸軍対敵諜報部将校(1922-2005)