ディスカバー・ニッケイ

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カリフォルニアに来た時のこと (英語)

(英語)徴兵された時、州兵部隊本部に報告に行かなければなりませんでした。様々な兵士がいました。州兵部隊本部は、カリフォルニアにつながる線路に直結していました。本部を出ると、僕は列車に乗せられました。列車の窓という窓は塞がれ、僕らはキャンプ・ロバーツに到着しました。お話したとおり、それは3月のことで、ミシガン湖から冷たい風が雪や氷と一緒に吹き込み、それは憂鬱な冬でした。僕らは電車に乗せられ、カリフォルニアに到着すると降りるよう指示されました。するとそこには全てが青々とした美しい景色が広がり、鳥も飛んでいました。草原ではヒバリが、あらゆる種類の鳥がさえずっていました。冬のシカゴとは天と地ほどの差でした。僕は本当にショックを受け、その光景を目にした時、僕はもうシカゴに戻って暮らすことはないな、と言いました。僕はその瞬間、カリフォルニア人になったのです。


軍隊 (armed forces) 軍隊 退役軍人 (retired military personnel) アメリカ陸軍 退役軍人 第二次世界大戦

日付: 2012年1月26日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ハリー・シュナイダー氏(1916年生まれ)は、東京に駐在したアメリカ陸軍情報部隊員でした。ハリーは日系人ではありませんでしたが、事務処理能力の高さを買われ、サンフランシスコの陸軍情報部 (M.I.S.) 研修プログラムに採用されました。その後ハリーは二世兵士と共に日本語を学習することに関心を持つようになりました。第二次世界大戦直後の1948年、ハリーは妻の玻満子(はまこ)と結婚しました。第二次世界大戦終結時、アジアの「戦争花嫁」が米国へ入国するには、特別立法の制定が必要でした。1950年、ハリーと玻満子は米国に入国するため、東京の日本領事館で再び結婚し、2人は米国に渡った最初の夫婦の一組となりました。2013年6月、ハリーは97才で亡くなりました。(2014年6月)

George Kazuharu Naganuma
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ジョージ・カズハル・ナガヌマ

軍隊でタイピストとして働く

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

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George Kazuharu Naganuma
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ジョージ・カズハル・ナガヌマ

軍隊でバスケットボールをする

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

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Kazumu Naganuma
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カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

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Mia Yamamoto
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ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

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