ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1323/

法律分野における日系の先駆者たち(英語)

(英語)初期の先駆者たちの仕事は、少ない報酬または無償で地域の人たちを助けることでした。藤井(整・セイ)さんは、違憲法令と戦いました。フランク・カサマさんのような人たちもいました。彼らは、日系アメリカ人弁護士で、日本から帰国できなくなった人たちでした。恐らく彼らは大学の授業を受けるために日本へ行ったのだと思いますが、戦争が勃発し、日本から出国できなくなってしまったのです。彼らがどうしたかというと、日本を出ることができなくなった全ての人々を助けるため、日本に腰を据え、力を尽くしたのです。フランク・カサマさんを始め、たくさんの弁護士が人々を助けました。弁護士のジム・ウエダさんや同じく弁護士だった彼のお父さんも、支援を続けました。 日系アメリカ人が弁護士になった時、彼らが公的な職につけることはほとんどありませんでした。彼らは、地域のために働くか無償で公益活動をしていたのです。 驚くべき歴史ですね。(ジョン)アイソさんや藤井さん、他にも素晴らしい貢献をしてきた弁護士たちがいます。個人、そして地域のため、多くの人々がたくさんの重要な活動をしました。


コミュニティ 法律

日付: 2013年7月17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ショーン・ハマモト

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

ローズ・マツイ・オチ氏は、1938年12月15日カリフォルニア州ロサンゼルス東部に生まれました。第二次世界大戦の勃発により、当時まだ幼かったオチ氏は、一家と共にサンタアニタ競馬場跡地に強制収容されました。その後、一家は、当時の日系アメリカ人強制収容所の一つであったローワーに鉄道で移送されました。強制収容所から釈放されたオチ氏の両親は、国外退去を命じられましたが、市民権専門の弁護士がこれを覆し、両親を助けました。オチ氏は、一家の辛い体験を通して不当な扱いを知り、不正を正すことを学びました。

オチ氏は、人権や社会正義のために戦うことを目指し、法律の道に進むことを決意しました。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で学士号を取得した後、カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校で理学修士号を取得し、ロヨラ法化大学院で法学士を取得しました。彼女は、貧困層のための弁護士、「レジー」としてU.S.C. Western Center on Law and Povertyでキャリアをスタートさせ、共同登録弁護士としてセラーノ対プリースト裁判に携わりました。この裁判は、教育の機会平等のための法改正に挑んだ画期的裁判でした。以後オチ氏は、カリフォルニア州認定弁護士、司法委員、懲戒審査官を務め、ロサンゼルス郡弁護士会のための初代AA運営委員会メンバーにもなりました。

また、近年ではツナキャニオン日系人抑留所の保存に貢献し、同抑留所は議会からの歴史遺産認定を受けました。オチ氏は2020年12月亡くなりました。 (2020年12月)

ミシェル・ヤマシロ

沖縄系アメリカ人(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

トム・ユキ

餅つきの伝統(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

ミシェル・ヤマシロ

日本人がペルーへ移住した理由 (英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

文化人類学から法学への転向(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ファン・アルベルト・松本

在日日系コミュニティの変化

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

モニカ・タイシャ―

日系コミュニティ最大のイベント、敬老会(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ミア・ヤマモト

アジア太平洋諸島法学生協会の共同設立

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

高校における黒人差別の理解

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

社会正義のために立ち上がる

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士