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4.第二次大戦後 反共の中、労働者の平等をめざして
組合の組織化や労働争議も、アメリカが世界大戦に参戦するにいたって、一旦足踏み状態になる。だが、終戦後間もなく、ハワイの労働者は、正当な権利を手に入れるべく立ち上がるのである。労働者の組織化をすすめた港湾労働者の組合ILWU(International Longshoremen’s and Warehousemen’s Union)のトップにはアメリカ本土からの白人アメリカ人、そしてそのもとに、ハワイ生まれのアジア系やハワイ系の比較的若い労働者が集まった。特に砂糖プランテーション労働者が、このILWUのもとに組織化されたのは画期的であり、その組織化に尽力したのは、若い日系二世であった。
1946年、戦前ハワイの最大の産業であった砂糖産業の中心であるプランテーションで、民族や文化背景の違いを越えた労働者によるストライキがついに成功を収めた。そしてその3年後1949年、今度は波止場や倉庫の労働者がILWUのもと団結してストを決行し、6ヶ月間と長引いたものの、結果的に成功を収めた。これは、ハワイの民衆の歴史という視点からは画期的なできごとであるが、この出来事を、一世の歌詠みたちはどのように表したのであろうか。
ILWUが46年にプランテーションでのストを成功させると、その後、ハワイでは、労働組合員を中心とした人びとは、実は共産化しているのではないかという疑いをかけられた。一世は、日系が共産の疑いをかけられていることに衝撃を受けた。
日の恩か 赤化か オヘア 熟れそめぬ
(横山松青1947年作品『アイカネ』所収)
赤化恐れつ 怒れる草木 紅葉しぬ
(横山松青1947年作品『アイカネ』所収)
上の句に表れているのは、ハワイの同胞が共産主義になってしまうことへの恐れではないか。米ソ対立の中で、反共ヒステリーが高揚していたため、1947年に発表されたハワイ社会に共産主義者が存在するのではないかという報道は、ハワイ中を震撼させた。そして何よりも日系コミュニティにとってショックだったのは、自ら「元共産党員」として、47人の共産主義者のリストを世に出したのが、日系二世の男(Ichiro Izuka)だったことだった。そして、そのリストの中に、日系の名前がいくつも含まれていたのは、一世にとってはさらにショックだった。
第二次世界大戦でアメリカ兵として大いなる働きを遂げながら、戦死した多くの二世のことを考えると、日系一世は、同じ二世が共産化の疑いをかけられたことに対して、複雑な思いであった。戦場で勇敢に闘った二世を誇りに思い、二世の流した血のおかげで日系は平等な立場に近づいていると思っていた。そこで、アメリカ社会に眉をひそめられるような共産化した二世の登場は、受け入れがたかったのであろう。
その後1950年代にかけて、ハワイは「赤の恐怖(Red Scare)」の時代となり、共産嫌疑者の査問裁判が行われた。港湾労働組合のILWUの中心人物ブリッジスの名前さえ、俳句に詠われた。
ハレー・ブリッジスは汝の仲間 巣なし蜘蛛
(横山松青 『アイカネ』所収)
また、共産嫌疑者が当局に召喚され査問されたいわゆる「赤の査問」について触れた句もある。査問が不当として、労働組合がストを起こしていたことがわかる。
赤の査問に挑む罷業や 村時雨
(横山松青 『アイカネ』所収)
また、実際に自分たちの生活に大いに影響を及ぼした1949年の港湾労働者のストライキについては、一世によるいくつもの歌、句がある。ストライカーたちに同情的というよりは、ストのせいで生活必需品が品薄になったり、バスのストでは、移動手段がなくなったり、ということで、どうしても、不自由な生活についての歌句、さらにストに批判的な歌句が見受けられる。
<船舶スト>
米足らぬ時に逢へれば白玉の 炊きたて飯(いひ)は勿体なく食すも
(中林無有 『心影集』1964年出版 所収)
<島民を餓死せしめんとす桟橋ストに題す>
餓死か赤化か炎天に振るストのメス
(横山松青 『アイカネ』所収)
<罷業に題す>
朝顔 雨にくづれ島民 ストに痩す
(横山松青 『アイカネ』所収)
<バス罷業に題す>
バス消えし 町の蟻ども 踏んでゆく
(横山松青 『アイカネ』所収)
バス罷業 桟橋罷業 何罷業 命罷業もやがて来らむ
(中林無有 『心影集』1964年出版 所収)
最後の短歌はシニカルに、自分の命まで罷業するときがくる、と述べる。
この1949年のストが、ハワイの住民の生活に大いなる影響を与えながらも、1946年の砂糖プランテーションのストと同様、労働組合側の勝利となったことは画期的であった。これまで辣腕を振るってきた砂糖産業の5大企業Big Fiveも労働者の権利を認めたのである。戦前の一世労働者ができなかったエスニックを越えた労働者の連帯の勝利であった。それは、ハワイの土地で生まれ育った二世世代になって実現したわけである。
こうして、ハワイの日系、特に一世にとって戦前からの望みのひとつ、労働者として公正な賃金と待遇を受けることは、戦後すぐの労働運動とストの成功によって実現した。そして一世が法的に平等な扱いを受けることという日系コミュニティのもう1つの望みは、1952年のマッカラン・ウォルター帰化移民法によって実現された。一世に帰化の道が開かれ、日本からの移民にも割当が与えられた。さらに、ハワイに住む日系一世にとって、もうひとつの「平等」とは、ハワイ準州がアメリカを形成する他の州と同等の地位、つまり州になることでもあった。戦前からハワイの州昇格は、日系の日本語では「立州」と呼ばれ、悲願であった。それは1959年に実現した。このように、ハワイの日系コミュニティは、アメリカ本土の日系とは異なる点で感じてきた「不平等」を克服して行ったのである。
ハワイの一般の日系人は、アメリカ本土の日系のような大挙しての強制収容をされなかったため、アメリカ本土の日系ほどの差別を受けなかったように誤解されやすい。しかし、ハワイだからこその不平等な扱いを長い間受けてきて、それがついに平等に近づいて行ったのが、日系を始めとするハワイのマイノリティ集団の戦後の歩みであったといえるだろう。そのきっかけのひとつは、やはりここでとりあげた「労働の現場」での権利のための闘いだった。それを見つめてきた一世の声は、彼らの作った和歌の中に表れているのである。
*2013年7月4日から7日にかけて行われた全米日系人博物館による全米カンフェレンス『Speaking Up! Democracy, Justice, Dignity』での日本語セッション「一世の詩、一世の声 (Issei Poetry, Issei Voices)」のセッションでの発表原稿です。
© 2013 Mariko Takagi-Kitayama