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6.戦後のハワイ日系社会
戦争終結後は、日本人社会ではエスニック文化が一気に復活した。戦後のハワイ社会は日系文化にたいして非常に寛容で、「非アメリカ的」という激しい攻撃を受けることもなくなった。重要な制度であった日本語学校、仏教寺院、神道神社が再建された。日本人社会の生活習慣や行事等にも復活した。
久さびさに雛なつかしく飾りけり 川本恵子
なつかしき人の集ひや初句會 豊村
四年ぶり日本映画や初興行 恵子
戦後の日本人社会は、戦争中の軍需景気の恩恵を受けて蓄財がすすみ、好景気であった。人々は派手に消費した。大きなダイヤモンドの指輪が光っていたり、結婚式や出征祝いに多額の金が使われたりした。
五年目の友は成金Aクラス 一涙
マリ・リングその昔なら家が建ち 柳子
日本文化のリバイバルと並行して、ハワイ社会に寛容に受け入れられた日本人は、多民族社会ハワイへの同化に向かっていった。
伝統を捨てて二世に親しまれ 曲水
うろ覚え孫に合せて米国歌 日出子
1952年のマッカラン・ウォールター法によって一世にも帰化の道がひらかれると、日本国籍を保持するか、アメリカ国籍を取得するかの選択に直面することになった。
親と子の悩みも籍のありどころ 君子
帰化が是か帰化せぬが否か弥生月 横山松青
それまで日本人であることを声高に誇っていた一世も、帰化のための試験勉強の仲間入りをした。祖国に後ろ髪をひかれる思いを抱えつつ、また周囲から冷やかされつつ。帰化によって得られた最大の収穫は選挙権の行使であった。一世は感激に手が震えた。
待ってゐる母に済まない帰化願 浪江
六十にして明日なき春の帰化講座 横山松青
帰化権をめざすABC冷かされ 灯花
帰化市民初の一票へ手がふるえ 風影
同じ1952年、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が主権を回復した。ハワイの一世は日章旗を見上げて感慨にふけった。1952年は、一世にとっての戦後が終わった年であったといえよう。一世は国籍がアメリカ人になっても日本の伝統や文化を積極的に保持し続け、アメリカと日本の両方に所属する複属性を保ち続けた。
十一年たえて久しき日章のみ旗かがやくけさの蒼空 中林無有
日本人としての名残や雑煮餅(帰化を許されて) 横山松青
独立日本の鐘が鳴る鳴る初御空 川本恵子
故里へアメリカ人で帰朝する 美影女
おわりに
太平洋戦争は移民に同化をせまり、戦争を契機としてアメリカ化が進んだといわれることがあるが、短歌、俳句、川柳に表現されている一世は、法的地位が戦前の日本人移民、戦中の敵性外国人、そして戦後帰化権が認められてからは帰化市民と変わっていったが、その日本人意識は形を変えて彼らのうちに保持されていることがわかった。
戦前帰化不能とされた一世は、アメリカ国籍の二世の親としてハワイに永住する覚悟を決め、多民族共存社会のハワイで、祖国とハワイの両方につながる複属性を享受することができた。開戦とともに敵性外国人となった一世は、息子をアメリカ軍に送り出し、同化の圧力に屈してアメリカ文化・生活様式を取り入れたが、心中は日本人として祖国の勝利を確信し、矛盾した複属性を保った。そして戦後になると、再び寛容なアロハ精神に基づくハワイ社会で、日本文化のリバイバルを起こした。さらに帰化権が与えられるや、多くの一世は日本国籍を捨てたが、日本人としてのアイデンティティや価値観を捨てたのではなく、同化をすすめつつ日本人として生きるようになったことが、彼らの作品から読み取ることができた。彼らはアメリカ人であるとともに日本人という意識を保持し、二重の帰属性を持ち続けたのである。
一世の残した短歌、俳句、川柳によって、かれらの戦前から戦後に至る日本人としての思考、行動、情念の一端を知ることができた。彼らの文芸作品が、他で得ることのできない社会史、文化史の史料であることが証明されたといえよう。
*2013年7月4日から7日にかけて行われた全米日系人博物館による全米カンフェレンス『Speaking Up! Democracy, Justice, Dignity』での日本語セッション「一世の詩、一世の声 (Issei Poetry, Issei Voices)」のセッションでの発表原稿です。
© 2013 Noriko Shimada