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最終回 新しい世代に受け継がれ
CEOにデニス・モリグチ
1868年(明治元年)、日本人は初めて集団で海外に移住した。行先はハワイだった。あれから150年、いまではハワイやアメリカ本土で、日系アメリカ人は、4世、5世が誕生してい…
川井 龍介 • 2018年10月12日
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第20回 家族をつないだ母の力
モリグチ・ファミリーの結束によって成長してきた宇和島屋だが、その結束を生んだのは、それぞれの家業に対する愛情であり、創業者の森口富士松・貞子という両親に対する7人の子供たちの思いやりだった。裏を返せ…
川井 龍介 • 2018年9月28日
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第19回 ファミリーの結束、7人の和
1970年にキング・ストリートに店舗を移すのと前後して、モリグチ・ファミリーの宇和島屋(Uwajimaya)は、店舗での小売り以外にも商売を広げ多角化していった。1966年には、食品の卸部門をはじめ…
川井 龍介 • 2018年9月14日
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第17回 法人化と二代目誕生
1962年の春から秋にかけて開かれたシアトルの万博(World's Fair)に出店した宇和島屋は、わずか十数坪の小さな店舗ながら多くの客に恵まれ成功を収めた。しかしこの期間のさなかに、森口家の主で…
川井 龍介 • 2018年8月10日
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第16回 万博に出店し成功。富士松逝く
終戦から5年後の1950年9月、日本とシアトルを結ぶ太平洋航路が再開し、翌年にはサンフランシスコ平和条約(対日講和条約)が締結され、日本は独立を回復した。日米間の交易、交流も進み、60年には、日米修…
川井 龍介 • 2018年7月27日
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第14回 戦後、シアトルで店を再開
戦時中、10ヵ所に設けられた日系人収容所のなかで、カリフォルニアのトゥーリレイク(Tule Lake)収容所には、地理的な理由から当初収容された日系人に加えて、アメリカに対して忠誠心がないとされた人…
川井 龍介 • 2018年6月22日
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第13回 開戦、そして収容所へ
三人の子供を抱えて、森口富士松、貞子夫妻が切り盛りする宇和島屋には、商店ということもあって、いつも日本人が出入りしていた。子供たちはこうした大人たちにかわいがられ、面倒をみてもらうなど、日本の田舎の…
川井 龍介 • 2018年6月8日
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第12回 タコマでの商売
シアトルの南50キロほどのところに位置する海沿いのタコマは、貿易の拠点として、工業都市として早くから発展してきた。1907年には人口は9万人に達していた。森口富士松が店を開いたのは1928年だが、日…
川井 龍介 • 2018年5月25日
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第11回 シアトルからタコマへ
ワシントン州のシアトルやタコマが日本人移民の町として栄えたのは、サンフランシスコやロサンゼルス同様に、日本からの定期航路が開けた地であったことがその大きな理由である。
日本から北米への航路は189…
川井 龍介 • 2018年5月11日