前回は日本人理髪業発展についての前編として日本人理髪号組合や料金値上げの記事について紹介したが、今回後編として、シアトル総ストライキ、1939年頃に理髪業を目指す二世達の記事などを紹介したい。
シアトル総ストライキ
「日本人関係」(1919年2月4日号)
1919年2月、シアトル造船職工約2万5000人のストライキに同情して、シアトル全域にあった百数十の各労働同盟が総ストライキを決行するという事件があった。その際、日本人社会へどのような影響を及ぼすことになるか、北米時事の記者が日本人理髪業組合長の伊東氏を訪問して取材している。そこで氏は次のように語った。
「白人理髪業組合本部を訪問し意向を尋ねたるに白人側に同情を以てストライキをなすことに決定。日本人同業者に対する態度は未だ決定せず。(中略)日本人同業者も白人組合にて同情を要請する決議あらばこれに賛同されたしと云っている。このため日本人同業組合は白人同業組合の決議に基づき進退する考えなるが、総ストライキ決行の暁は、彼らより何ら交渉なくとも、客は少なくなり、更に電気、水道などすべて途絶さるる如きなれば、日本人理髪店も営業不可能となるべきは明らかなり。寔(まこと)に不肖なる事にて、一般経済生産発達の上に悲しむべきことなり」
日本人理髪業組合も、やむなく白人同業組合に賛同して休業。ストライキ終了後の2月11日から開店営業した。2月10日号には、その開店広告が掲載されていた。
操業時間も同調
「北米日会協議会」(1919年7月31日号)
「日本人理髪業組合は従来、白人同業者組合と連絡し、一致の歩調を取ってきた。今回、現在実行しつつある白人同業者組合の営業時間に共同方を勧誘してきた。審議の末、時勢の要求に適応すると同胞の態度を明瞭にするため、次の通り決定した。1919年7月末日 シアトル日本人理髪業組合。
『開店午前8時、閉店午後7時、土曜日に限り閉店午後9時、8月4日より実行す』」
これまで、日本人理髪店は毎日朝7時から夜9時まで営業した。白人側から見れば日本人は働き過ぎで自分達のビジネスの邪魔をすると考えた。そのことが排日の一つの原因ともなっていた。これを防ぐため、日本人組合は白人側の要求を受け入れ操業時間短縮に応じた。
スペイン風邪流行
「理髪業者はマスクが必要」(1918年10月24日号)
「市当局の命令によりシアトル市の理髪業者は流行感冒の伝染を防ぐため、今日から病毒除けのマスクを使用しなければならぬこととなった、シアトル市の昨日の新患者は302名で死者12名に達した。昨夜入港した鹿島丸によると、感冒は日本にも侵入、同船出発当時に数名の患者が発生していた。(中略)又パリ来電によれば同市にも激烈なる流行感冒症発生し、過去の一週間に886名の病死者を出した」
当時のシアトルでの流行の様子については、1918年11月12日号に記されていた。
「ワシントン州衛生局から10月2日に特別調令を発して覆面令が出されていたが、11月11日覆面令撤廃の快報が伝えられた。10月2日から昨日までの死者合計は485名。患者数は10月9日迄に一万余名となっていた。この間、演劇,活動写真、寺院、学校等はすべて閉鎖されていた。又各商店の営業時間も午前10時から午後3時までで、食料に関する以外の業種は、土曜日は閉店となっていた」
100年前も感染防止対策として、このような厳しい規制が敷かれていた。理髪店はこの期間、時間制限とマスクの使用を義務付けられた。
同年11月16日号に制限令解除後も、再発防止のため理髪業者にはマスク使用を強く求められている記事が掲載されていた。
後を継ぐ二世達
1930年以降、不況や日米関係悪化から日本へ帰国する日系人が増えるなか、理髪業者の減少も見られた(理髪店軒数グラフ参照)。一方で、残った家族の中には二世が理髪業を引き継ぐという流れもあったようだ。そんな当時の記事を紹介したい。
「何と愉快ではないか第二世嬢の床屋さん」(1939年1月13日号)
「(その一)べインブリッジ島で理髪店を経営する中田実蔵氏の次男、百一君は昨年ベインブリッジ・ハイを卒業した青年であるが父業を承け継いで、実社会に乗り出したいと決意し、今春早々、第一街104のモラー・バーバー・カレッジ(MBC)に入学。バリカンを握って卒業の日を楽しみに待っている。
(そのニ)メーン街で理髪業を営む椿原九助氏の令息澄夫君も『父はバリカンで我々を育て上げたのだ。我々もバリカンで実社会に立とう』と初々しくも決意し、目下MBCに通学している。
(その三)ワシントン街ユニオン・ホテル経営者下紺(しもこん)正留氏令嬢ミチエさん(19歳)は娘さんながら中々しっかりしたもので、日本人社会に居るかぎり第二世であっても職業教育を受けておく方が将来の為になると考え、MBCで学び、この度、めでたく卒業。近き将来どこかの床屋さんで働くか、自分で開業するかしたいと云っている。第二世嬢の床屋さん、何と愉快ではないか。
(その四)ケントの農業家谷川業吉氏の令息、フランク君も第二世の床屋志願者で、率先してMBCに入学。既に卒業証書を獲得。床屋開業の準備中である」
花園一郎「北米春秋:第二世の床屋さん」(1939年3月9日号)
この二世の床屋の記事について、北米時事社社長の有馬純義(ペンネーム花園一郎)が「北米春秋」というコラムで次のように語った。
「理髪業は我が社会の発達途上に大きな役割を果たしてきた。しかも近年は新しい徒弟もなく、開業者もなく、従来の惰性でわずかにその存在を残してきたというも過言ならざる状態になっている。然らば理髪店は今後有望でないかというと、決して左様でない。新しい設備と新しい腕を持ってやるなら発展の余地は十分あることと思う。そして日本人には適した仕事なのである。いつまでもトラック・ドライバーが第二世の仕事ではない。僕は第二世の床屋さんの出現の記事を最近の北米時事で最も愉快に読んだのである」
日系一世が大変な苦労をして作り上げた理髪業を引き継ごうという二世達がいたのだ。
以上のように日本人理髪業は、日本人ならではの特性を生かしてシアトルの地で発展した。この発展を支えたのは、白人同業者からの執拗な差別と排日運動にもめげず、懸命に活動した伊東忠三郎をリーダーとする日本人理髪業組合だったことが『北米時事』の記事から読み取ることができる。
次回は理髪業と同様にシアトルで発展した日本人ホテル業についての記事を紹介したい。
(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)
参考文献
『北米年鑑』北米時事社、1913年
竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年
伊藤一男 『北米百年桜』日貿出版、1969年
*本稿は、『北米報知』に2021年11月13日に掲載されたものに、加筆・修正したものです。
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