日系の児童擁護施設「南加小児園」が、来年で創立されてから95年になります。その5年後には100年を迎えることから、これを機に小児園の歴史をきちんと保存しておこうという動きがいくつか進んでいます。この施設で8歳から18歳までの10年間を過ごした日系二世の山崎ミッツ満さん(84)=ガーデナ市=の親戚筋がこのほど作ったDVDも、そうした動きの一つと言えるかもしれません。
小児園は日本人移民の初期の1914年に設立され、主に生活難に直面した家庭の子どもたちを預かっていました。閉鎖されたのは1963年。山崎さんに直接話を聞くと、「小児園がなかったら自分は今どこでどうしていたか、全く見当がつかない」と、何度もその意義を強調した上で、「こういう人がいて、こういう施設があって、こういうことをしてくれたということ。そのことを多くの人々に知ってもらいたい」と静かに、しかし情熱を込めて話してくれました。
山崎さんの両親は広島県からの移民でした。山崎さんは三人兄弟の真ん中です。母親は1933年に病死。山崎さんが小児園に入園したのは翌32年で、父親は勤めていた会社からレイオフされ、家賃が払えない状態でした。世界大恐慌の真っ直中です。「当時の同胞社会は在留の日浅く、経済的基礎が薄弱であった」(南加州日本人七十年史)。ある日、学校から帰ると、家には鍵がかかっていて中に入れません。幸い向かいの家族が数日間預かってくれ、その後、母親が通っていた教会の牧師を通じて、三人は小児園に預けられました。父親からの連絡はそれから突如、途絶えます。
小児園では毎朝5時45分に起床、6時15分からミサ、6時45分から朝食。子どもたちは男女約半々で、ほぼ全員が近くの学校に通っていました。大半の子どもたちは数年で親か兄弟、あるいは親戚に引き取られていきました。施設で10年暮らした山崎さんのようなケースはきわめてまれだったようです。施設での生活について山崎さんは「食べ物は常にあったし、一般の子どもたちにはできない競技を楽しむこともできたし、いいことはたくさんあった」と振り返ります。
運営面では、創立者・楠本六一の手腕で、日系社会から資金や物資など多くの支援を得ることができました。預かる子どもたちの数もどんどん増え、そのたびに移転。全部で何人の子どもたちが小児園の世話になったか、手元に今その数字はないのですが、かなりの数に上ったことは間違いないでしょう。
しかし、こうした施設も戦争の波は確実に襲います。強制立ち退きのため、一部の子どもたちは家族に引き取られて家族とともに収容所に送られましたが、引き取り手のなかった38人の子どもたちは他の施設の子どもたちとともに、マンザナ収容所内に作られた「チュルドレン・ビレッジ」に収容されました。
18歳になっていた山崎さんはアーカンソー州ローワーの収容所に送られ、そこから翌年シカゴへ出てしばらく仕事をした後、1945年の春に軍隊に入隊。ミネソタ州、メリーランド州を経て、日本で約一年間勤務しました。47年に米国に戻り、50年に結婚。今は二人の息子と四人の孫がいます。
山崎さんは長い間、父親に対していい感情を抱いていませんでした。小児園の他の子どもたちの多くが家族の訪問を受けていたのに、山崎さんの父親は来てくれなかったのですから、当然かもしれません。強制立ち退きで一時収容されたサンタアニータで父親を見かけたのですが、アリゾナ州ポストンの収容所に送られることになっていた父親に「葉書でも送って」と一言声を掛けたぐらい。しかし、葉書はついに一通も来ず。その後、シカゴでも泊まっていたホテルで偶然顔を合わせたのですが、父親は山崎さんを避けるように、さっさとホテルを引き払ってしまったそうです。
しかし、結婚後、山崎さんの妻メリーさんが父親にクリスマスカードや父の日のカードを送り続けたことから、ついに和解。70年に父親は当時住んでいたシカゴからロサンゼルスに来て、一週間ほど山崎さんの家に泊まっていきました。交流はそれから父親が死去する82年まで続きましたが、残念ながら父親は過去のことについて多くを語らず、連絡を断った理由の詳細などはついに分からずじまいだったようです。
父親との間にできたそうした「亀裂」は直接、小児園が生んだものではなかったかもしれません。それでも、小児園を必要とした時代の産物の一つと言うことはできるでしょう。そうした「悲劇」の多くは結局、語られることなく、人々は次々と生活を積み重ねていくしかないのかもしれません。
そんなことを考えながら、ロサンゼルス市シルバーレーク地区にあった小児園の跡地を訪れてみました。1920年に開設され、敷地は5ロット。当時の日系社会の支援の大きさをうかがうことができます。現在は民家が並んでいます。
小高い丘の中腹からは、ダウンタウン方面に眺望が開けていました。私は、小児園の子どもたちがどのような思いでこの景色を見ていたのか思いを馳せながら、心の中でもう一度、山崎さんの言葉を繰り返していました。「多くの人々に知ってもらいたい」。それは、豊かさの中で見失われた小児園の精神を忘れるなという訴えだったのかもしれないと思っています。
【お願い=南加小児園で生活していた方、あるいはそうした方をご存じの方、ぜひご連絡ください。電話323・227・1562】
*本稿は『TV Fan 』 (2008年6月)からの転載です。
© 2008 Yukikazu Nagashima