ディスカバー・ニッケイ

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両親に内緒で渡米

1992年ですから、約15年前に、この国に最初に来て。私は、父はやっぱりすごーく日本の古い家庭から来た人じゃないかなと思っています。だから、料理もしないし、灰皿持ってくるのも、私の母に「はい、持ってこい」って、そういう人で。で、私にやっぱりお見合いで、幸せに誰かと日本人と結婚して暮らしてほしかったみたいですけども、そうはいかなかったので、父はきっとすごーく最初は怒ってましたよ、やっぱり。もう、話ができないくらい。で、母は昔、中学校の先生をしてました。で、母も性格は強いんですけども、父親に私のように、こうtalk back(言い返す)をするような人ではないんです。こう黙って、ぐっとこらえて。あ、それは母の強さで。で、やっぱり、私、こちらに来たのが笑い話なんですけども、最後の最後まで誰にも言わずに、自分で少しずつプリペア(準備)して、空港でアメリカに行きますってメールしたんです。はっきりいって家出みたいなものです。びっくりしたんだと思います、私の両親は(笑)。そうでもしなきゃ来れなかったと思います。


移住 (immigration) 移住 (migration)

日付: 2007年3月1日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

松原由美氏は岐阜県岐阜市出身です。日本の保守的な家庭に育ったという松原氏は、1992年3月末、親に内緒で英語上達の目的にて渡米しました。英語学校へ数ヶ月通った後、日本の短大で美術を専攻していたこともあり、ロサンゼルスのFashion Institute of Design & Merchandising(FIDM)へ進学し、ファッションを学びました。1994年にFIDM卒業後、ファッション関連の企業へ就職しました。

この頃より、少しづつアメリカ永住を考えるようになり、就職先の会社からグリンカード(アメリカ永住権)をサポートしてもらうことになりました。しかし、1999年会社が経営不振に陥り、永住権を取得する前に退社。永住権のことなどもあり、同年11月その頃知り合ったアメリカ人男性との結婚を2週間で決意しました。2001年5月、念願のグリンカードを取得し、2006年12月にアメリカ市民権を取得しました。現在も、ロサンゼルスにてファッション関係のビジネスに携わり、グレーダー1やスペックライター2として活躍しています。 (2007年3月1日)

1.グレーダー: 標準サイズのパターンをもとに、各種のサイズに展開させるための型紙製作を専門的に行う職業。
2.スペックライター: 各商品の詳細(デザイン、サイズ、細かい仕様など)の標準値を表に記す作業を専門的に行う職業。

ロベルト・ヒロセ

ハーフ日系(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ロベルト・ヒロセ

少数の日本人家族と共に育って(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ロベルト・ヒロセ

ラテンアメリカにおける日系人の多様性(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ジョン・ナカ

徴兵回避のためアメリカへ帰国(英語)

日系アメリカ人二世、盆栽マスター(1914-2004年)

赤間みちへ

ブラジル移民の目的

一世。ブラジル女性教育の先駆者

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父のアルゼンチン移住 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

外間良広

日本からアルゼンチンへ

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

外間良広

移住当初、言葉で苦労

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

高木一臣

日本を離れ、いざアルゼンチンへ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

彼をアルゼンチンに留まらせたタンゴ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

アルゼンチンへの渡航(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

ルイス・ヤマダ

戦後、アルゼンチン定住を決意(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

ルイス・ヤマダ

戦後アルゼンチンに戻る(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

ルイス・ヤマダ

運の強い男(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

西村 俊治

借金の取立てにうんざりしブラジル移民を決意

JACTOグループ創設者 (1911-2010)