インタビュー
『憩いの園』の開園まで
おじいちゃん、おばあちゃんたちが、たくさんやってきまして、入院させるところ心配しましたけども、あっちこっちオザスコ地区とかビラマスコテ地区とかジャサナン地区とかに入院させまして、その時にどうかして、私なんかは日系の病院を作らなくちゃいけないと、夢見てました。 救済会は申し遅れましたけれども、救済会が始まったとたんに、戦争が始まって。始まったとたんに、ボニファシオ(Bonifacio)神父様ってドイツのフランシスカンの神父様が日本語を話すので、とっても日本人が好きで、私と一緒に救済会に手伝っていただいて、布教のほうをやっていただいて、いっつも私はお供をして、病院を見舞いに行ったり、亡くなる人がおったら、あの洗礼を受けなおさせたりしましたり、お葬式したりして、ずっと戦争中の後も10年間もずっと続いて、手伝ってきていらしたわけなんですので。その時に、私はどっかいい土地はないかしら、養老院を作るいい土地はないかしらっていって気をつけて、あちらこちら見に歩きましたけれども。あっても金がないから、作るわけいきません。そのときに神父様が、あのね、「今度あのカピトロ(首都)で、主教さんの、教会の上の方が取り変わるから。その今度なるお方は、あなたの大好きな神父さんだから、言って御覧なさい。あそこのボンスセッソ地区(Bonsucesso)の土地をくれるんじゃないかしら」って言うので、話しました。ところが、気持ちよくここを下さることになって、「それをあげる。これあなたの二人のご褒美ですよ」って。「あんた方が二人で一生懸命働いたご褒美ですよ」って言って、この10 アルケール (Alqueires)、建物を全部くだすったわけなんです。それでもって「いくらぐらい欲しいんですか」って、おっしゃったから、「5アルケールでも結構ですよ」って言ったら、それじゃあ「10アルケールあげましょう」って。 それをもって、ちょうど理事の石原桂三さんがホテルをやっとったもんですから、ここへ引っ越しまして、1957年に頂いたので、引っ越しましてあっちこっちこう塗ったりなんかして、58年の移民50年祭に笠戸丸でいらした、もう体の動かない与那嶺ジンゴロウさんを連れてきて、インアグラソン(就任式)したのでございます。一人ね。それから、あの移民祭の18日は取り込むから、1ヶ月前にインアグラソンしましょうって言ってね、5月の24日にここをインアグラソンしまして、その時は、与那嶺さん一人だったんです。だんだんそれから増えてまいりまして。というのがヤソナ(ジャサナ)の養老院に45人くらい入れてありましたけど、その人たちをみな連れてくるわけいきません。20何人しか入れないんですから。連れてくるわけにいきませんから、笠戸丸でいらしたお方だけ連れてきて入院しましたの。ところが、その方はね向こうが好きで、2ヶ月もいないうちに、私はもう向こうへ戻るっていって、戻ったんですよ。向こうへ、また連れて帰りました。
日付:
場所: ブラジル
提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.