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ブラジル日本移民史料館館長
(ポルトガル語)「日系」という言葉の意味とその重要性について、私の個人的な経験から、いくつか思い出されることがあります。1つ目は、私が大学へ入学したばかりの時のことで、当時の私は、社会の大多数の部分に属したいと強く意識するようになり、そのような意識が芽生えた以上、私はブラジル人にとして生きなければならないと感じていました。 私が大学生になったのは1968年で、ブラジルは非常に重要な時期を迎えていましたし、学生運動は世界中で全盛期を迎えていました。当時の私には、ブラジル人としての強い自意識があり、その執念の裏で、私の日本人の顔は、私に日本人であることを思い出させ、心の中には常に葛藤がありました。それは、私がブラジルと日本両方について理解しようと踏み出した、重要な瞬間でした。 その後、’70年代から’80年代初頭にかけて、私は日系ブラジル人新聞でジャーナリストとして働き、ページ数の多い日刊紙の中の、わずか1ページ分のポルトガル語ページを担当していました。その後、私は他の新聞社でも働きましたが、いずれも日系コミュニティや日系文化などについて書かれた日系新聞でした。当時の私は、2つの責任を負っていました。日系としての責任と、一般にメディアに関わる者として、事実に沿った報道をするという責任です。 3つ目の体験は、1998年、ブラジル日本移民史料館の館長となった時のことです。私は、日系移民の記録保存を任されるという重大な任務に就くことになり、新しい責任を負うことになりました。50年、100年後、私たちの両親や祖父母のことが、いったいどんな形で残されるのか私には想像もできません。さて、今お話しした3つが、私にとって重要な体験だった訳ですが、私の人生の中心には、常に「日系」に関わる事がありました。
日付: 2005年10月7日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: アン・カネコ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
セリア・アベ・オイは1950年イタペチニンガ市で生まれました。祖父母は広島市に近い阿多田島から1929年ブラジルへ移民し、農園で綿やジャガイモを栽培しました。両親も兄弟も同じく農業を続けました。1968年は歴史学を専攻し、1979年にカスペル・リベロ大学のジャーナリスム科を卒業しました。70年代半ばから、ニッパク新聞でポルトガル語で記事を書き始め、複数の新聞社などを通して、日系ブラジル人社会を紹介してきました。1998年からブラジル日本移民史料館の会長になりました。 (2006年7月26日)
日本の日系コミュニティの将来(ポルトガル語)
日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)
大泉町の日系ブラジル人(ポルトガル語)
いくつかの生い立ちを持ったユニークなアイデンティティ(英語)
フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)
日系人としてハワイで育つ(英語)
ハワイ生まれの元銀行幹部職員(1952年生)
日本人でもありアメリカ人でもある(英語)
音楽家、作曲家、ソングライター(1975年生)
両親は新一世(英語)
ペルー系沖縄人としての両親のアイデンティティ(英語)
ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人
沖縄文化の理解(英語)
本州の人々の沖縄人に対する偏見(英語)
共感する米国的な価値観(英語)
三か国語を使った沖縄での活動(英語)
詩を通して自分を表現(英語)
帰米二世、詩人、活動家(1923年生)
エスコバールについて(スペイン語)
日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)
ニッケイの定義(英語)
米国在住の日系コロンビア人(1974年生)
戦時中に厳しく規制された外国語教育
サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)