ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/714/

ラテンアメリカにおける日系人の多様性(スペイン語)

(スペイン語) 日系人の発展の状況は、国によって多少違っていたと思います。ラテンアメリカ一般についての話しですよ。パンアメリカン日系人協会を通じて、私はラテンアメリカや、チリの日系人の様々な現実を知る機会に恵まれました。それからそう、根本では共通するものもあるんですが、違いもいくつかあるんですね。私が見たところ、たぶん最大の違いは、その土地に移住してきた日本人の数によりますね。日本人がたくさんいるところには、当然、日本人学校があるし、日本人の集まりとか、仏教だかなんだかわかりませんが、日本の寺院もあります。それに対して、チリのような国では、そういうものは全くありませんでした。なので、日本人がたくさんいる国の状況では、日本の習慣や文化は、より長い間保たれてきたでしょうね。たぶん変わることもなく、より長い間その場所に留まっているでしょう。チリの場合、そして私の場合はというと、最善の状態で生きていけるよう、できるだけ早くチリ社会に適応するようにしてきたと思います。なので、そうした中でわかるのは、例えば宗教を通じてというのは、チリにはなくて・・・、宗教はカトリックが主流で、皆それを信奉するようです。また、例えば、日本人や日系人の核となる集団はとても小さく、地元の人との結婚やカップルになるのが、他の地域よりずっと多かったんですね。当然、そのことによって、とりわけ言葉はとても速く失われることになりました。


チリ コミュニティ 文化 移住 (immigration)

日付: 2005年10月7日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: アン・カネコ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ロベルト・ヒロセ氏は1950年8月8日チリのキジョータで生まれました。子供時代を農村で過ごし、チリに定住していた何人もの日本人と知り合いました。小学校から高校までキジョータやコピアポで勉強しました。コピアポでは鉱山採掘の仕事で一時的にチリに来ていた日本人たちと知り合う機会がありました。 1968年から1973年までサンティアゴにあるチリ大学で電気工学を学びました。そして日本の文部省の奨学金を得て6ヶ月間大阪外国語大学で日本語を学んだ後、1年間広島大学で研究生として電気工学を勉強しました。 チリ三井株式会社機械部で10年間働き、1986年に漁業用浮き輪製造会社である「インドゥストリアス・ビニコン」へ転職し現在に至っています。2002年にビニコンの多角化を指揮する責任者となり、チリ北部のカルデラでアワビの養殖センターを統括しています。 チリの日系人活動において、彼は1968年から1986年までチリ日系日本慈善協会(Sociedad Japonesa de Beneficencia)、そして1987年から現在までバルパライソ地域日系人組合(la Corporación Nikkei de la Región de Valparaíso)(前バルパライソ日系人連合: Agrupación Nikkei de Valparaíso)に積極的に関与しています。(2007年5月2日)

モニカ・タイシャ―

日系コミュニティ最大のイベント、敬老会(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

カズム・ナガヌマ

月に一度入国管理局にチェックインする

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

アジア太平洋諸島法学生協会の共同設立

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

高校における黒人差別の理解

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

社会正義のために立ち上がる

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士