ディスカバー・ニッケイ

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子どもの頃のトパーズ訪問

ええ、両親の友人がいたはずの収容所がどこなのか知りませんでした。それで私たちは訪問に行きました。私が覚えているのは、その場所がいかに陰気だったかということです。それから私は迷子になって両親とはぐれてしまいましたが、どの宿舎も似たような感じでした。私はあちこち探し回って、ちょっとヒステリックになり始めました。ある宿舎に入ったら、中はがらんとしていて、完全にがらんとしていました。

壁には内側から見ると大きな穴が開いていました。壁にたくさんの穴があいているのを見て、私は怖くなりました。それで、どうやって両親と再会できたのかはわかりませんが、本当にほっとしました。でも、それが収容所で経験した唯一の出来事でした。

誰も私と交流しませんでした。子供たちも誰もいませんでした。しかし、それが、私がどの強制収容所に対しても肯定的な考えを持っていないと感じさせるのに十分だったと思います。

実際、マンザナーの場合、私が住んでいた頃、ガーデナとトーランスに友人がいて、年に一度マンザナーへの巡礼がありました。私はどうしても行けませんでした。行けなかったのです。それから、マンザナーを通る道を他の団体とどこか別の場所への視察に行ったときも、マンザナーを見る気もありませんでした。見る気もありませんでした。今でもそこへ行きたいとは思いません。とにかく、行けないのです。


カリフォルニア州 強制収容所 マンザナー強制収容所 トパーズ強制収容所 アメリカ合衆国 ユタ州 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2022年5月13日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: エヴァン・コダニ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

坂田玲子さんは、1939年に生後5か月でロサンゼルスの孤児院から一世の両親に養子として引き取られました。投獄を避けるため、家族は他の日本人とともに1948年までユタ州ソルトレイクシティに移住しました。ロサンゼルスに戻った坂田さんの両親は、彼女が育ったイーストロサンゼルスでコインランドリーを経営しました。数年後、坂田さんと両親はトーランスに引っ越しました。坂田さんはトーランス高校を卒業し、カリフォルニア大学バークレー校に進学しました。結婚後、坂田さんは夫とともにオハイオ州ケント州立大学に移り、「ケント州立大学銃乱射事件」を目撃しました。坂田さんはノースカロライナ大学でビジネス開発の博士号を取得し、組織開発とビジネスの教員を務めました。坂田さんは両親が亡くなる前に南カリフォルニアに戻り、両親の手伝いをしました。坂田さんは定年退職前、32年間にわたりさまざまな業界や分野で起業家やビジネスウーマンとして活躍しました。現在はカリフォルニア州モンロビアに住んでいます。 (2023年5月)

スミコ・コザワ

マンザナ収容所での思い出 (英語)

花屋 (1916-2016年)

スミコ・コザワ

収容所の病院で働く (英語)

花屋 (1916-2016年)

スミコ・コザワ

強風の日々 (英語)

花屋 (1916-2016年)

スミコ・コザワ

祖母がマンザナに (英語)

花屋 (1916-2016年)

マイク・ムラセ

強制収容について(英語)

コミュニティ・アクティビスト

グレース・アイコ・ナカムラ

ラリーの釣りの腕前(英語)

カーデザイナー、ラリー・シノダの姉

ローズ・オチ

立ち上がり、挑戦すること(英語)

日系アメリカ人弁護士・公民権運動アクティビスト(1938-2020年)

ローズ・オチ

公聴会(英語)

日系アメリカ人弁護士・公民権運動アクティビスト(1938-2020年)

フレッド・Y・ホシヤマ

トパーズを去る(英語)

二世、YMCAと日系アメリカ人コミュニティ・リーダー(1914-2015)

ウィリー・イトウ

ユタ州トパーズの砂塵(英語)

第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)

ウィリー・イトウ

収容所での母(英語)

第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)

ウィリー・イトウ

トパーズでブローチを作る父(英語)

第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)