ディスカバー・ニッケイ

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核兵器についての考え(英語)

(英語)まだとても若かったという意味で、私たち、というか私は、運が良かったと思います。私たちは全てを受け流しました。そして基本的に、シカタガナイというのが日本の文化です。過ぎたことは過ぎたこと、どうしようもない、とね。

しかしそうは言っても、私は米国で育つ中で、戦争の原因を知ることに自然と関心を持つようになりました。原爆投下を決定づけたのは何か、といったことについてですね。私は今も、このような事態を許した政府や指導者らに激しい怒りを感じます。日本の軍の上層部が戦争を引き起こしました。あなたや私のような一般人は、戦争が始まることについて何も知りませんでした。私たちのような人々は、なぜ自分たちが戦争をしているのか知りませんでした。しかし戦争が始まり、その支援をしなければならないということは知っていました。軍や政府の決定が原爆投下に加担したことは間違いありません。米国には別の領域があり、この行為についてアメリカ人を非難するかと聞かれれば、私の答えはノーです。では私は誰を非難するのか?これは誰の責任か?世界の指導者があの大惨事をもたらしたのです。私は、この悲劇を起こした指導者らを非難します。

もっとも私は若い頃、もう一度あのような原爆を投下しようという愚か者はいないだろうと思っていました。しかし現在の世界の潮流を見ると、状況はしだいに悪化していて、人々はより攻撃的になっています。小さな国々が原爆を開発しようとしています。米国は1600発の核兵器を保有し、ロシアにも同じくらいの数があります。それ以外の国々の保有数を合わせれば、米国と同じくらいになるでしょう。世界を何度も破壊するのに十分過ぎる数の核兵器です。広島に投下された原爆より桁違いの威力を持つものもあります。少数または大勢の人々の中に音も立てずに紛れ込ませられるような、テロ攻撃用の小型兵器もあります。テロリストには理想的です。こうした全てのことによって、私はまた不安に駆られ始めています。今私たちの安全性は、以前より損なわれていると感じます。


原爆 被爆者 政府 ヒバクシャ 広島市 広島県 日本 核兵器 アメリカ合衆国 大量破壊兵器 第二次世界大戦

日付: 2019年9月3日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 三木 昌子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1938年イーストロサンゼルス生まれ。家族に連れられて1940年に来日。家族経営ビジネスのためにその年のうちに両親は弟を連れて帰国するが、ハワードと兄のケニーはそのまま日本に留まる。

第二次世界大戦が始まり、米国の家族はアリゾナ州ポストンに強制収容される。1945年8月6日、広島に原爆が投下され、ハワードは爆心地からおよそ1.3キロ地点で被爆したが無事だった。1948年に兄と共に米国に帰国し、家族との再会を果たす。

ハワードはコンピュータ技師の道を歩み、引退後は米国広島長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバーとなり、積極的に被爆体験を共有している。(2019年9月)

Marion Tsutakawa Kanemoto
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マリオン・ツタカワ・カネモト

戦時中アメリカの爆撃に備えた日本での生活(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

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Marion Tsutakawa Kanemoto
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先生から聞いた反アメリカプロパガンダ(英語)

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第2次大戦中の日本での苦難(英語)

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戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

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囚人のように思えた収容所生活(英語)

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1941年12月7日の記憶(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

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