ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/401/

戦時中アメリカの爆撃に備えた日本での生活(英語)

(英語) 広島が爆撃される前に岡山県が爆撃されるのを見た時のことを覚えています。岡山市です。私達はちょうど市外に住んでおり、B29が旋回しているのが見えました。機体にアメリカ軍のマークが見えたのです。私達は空襲に備え以前、避難訓練を行っていました。東京や神戸が爆撃され焼き尽くされたというニュースを聞いていたにもかかわらず、B29が岡山にやって来た頃にはもう訓練を行っていませんでした。私達の裏庭には防空壕がありましたが、一度も使いませんでした。ただ外に立ってB29が私達の頭上を旋回し、もっと爆弾を落とすため岡山市に飛んでいくのを見ていたのです。感覚が鈍くなるというか、恐怖心なくなるというか・・・それに慣れっこになって生活しなければなりませんでした。そうでなければ常に穴の中で暮らさなくてはなりませんからね。


日付: 2003年8月3・4日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

マリオン・ツタカワ・カネモトさんは1927年12月30日にワシントン州シアトルで生まれた日系二世の女性です。子供の頃日本で15ヶ月過ごした後、シアトルへ戻り中等教育を受けました。真珠湾攻撃の後、彼女の父はFBIに拘束され、司法省管轄のモンタナ州ミズーラの収容所へ収監されました。彼女自身はピュヤラップ集合センターからアイダホ州ミニドカ収容所へ収容、ミニドカにて父と再会しました。1943年、彼女の家族は日本へ戻ることを志願したため、アメリカ政府による捕虜交換船「USSグリプスホルム号」にて日本へ送還されました。日本で高等教育を受け、戦時中は空襲訓練などにも参加しました。戦後のアメリカ軍占領下の日本で、同志社大学へ入学し、アメリカ軍基地の病院図書館で働きました。その後、アメリカへ帰国し、ミネソタ州ロチェスターのセントマリー教育実習病院に入学。戦中に日本へ送還されていたため、収容所に対する戦後補償を拒否されましたが、集団訴訟の結果、1996年に補償を得ることに成功しました。

*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。

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弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)