ディスカバー・ニッケイ

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子どもと日本語

子供4人ですね。女男女男とちょうどよく生まれまして。その点は幸せですね。二人が日本生まれで、二人がカリフォルニア生まれだったんですね。

私ね、やっぱり日本語で話しして欲しいから、アイウエオ、カキクケコをね、書いて壁に貼って教えたんです、最初のうちはね。そのうちにあの、まぁ忘れたりって言うか・・・。で、サンタマリアに日本語学校があったんですよ。そしてそこにね、土曜日だけ連れて行くように。で私がその頃はね、あの洋裁店っていうかね、あのそこに勤めていて、その方がもうロサンゼルスに越すからっていうんで私にテークオーバーしてお店してたもんで、土曜日連れて行けなかったんですよ、日本学校に。だから主人も最初のうちは行ってたんですけどね。でやめちゃったから、途中で日本語もだんだん話ししなくなって、だからしゃべれませんね。


子ども 教育 日本人 言語

日付: 2015年2月6日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 田中 泉

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1937年、横浜で10人兄弟の5番目として生まれる。戦時中は東京の郊外で育ち、民間エンジニアとして米軍基地で働いていた夫のエドワード・E・キャロウェイと結婚。2人の子供が生まれた後、1960年に一家で米国に渡る。サンフランシスコのベイエリアに落ち着き、もう2人子供を授かり、その後ロンポック市に移る。娘2人、息子2人の4人の子供たちは、同市で育つ。1977年にイングルウッド市に引っ越し、以降同市在住。2009年に夫のエドワードが亡くなり、現在は介護の仕事をしている。(2016年5月)

高木一臣

スペイン語の学習(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

西村 俊治

農工学校を通じてノウハウを次世代へ

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

木下正夫

苦学生としてのサンパウロでの生活

負け組みの主要メンバー

ベナンシオ・シンキ

日本語学校での偏見 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ベナンシオ・シンキ

日本語学校の閉鎖と日本人の強制送還 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

二木秀人

ポルトガル語の試験

一世教育者(1911年生)

二木秀人

ブラジルでの日本語教育

一世教育者(1911年生)

ジョニー・モートン

日本語学校 (英語)

プロアメリカンフットボール選手。(1971年生)

ピーター・アイロンズ

強制収容を知る (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

ジョージ・ヨシダ

アメリカ社会への同化 (英語)

音楽家 (1922年)

クリフォード・ウエダ

日本語学校(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

ダニエル・K・イノウエ

初選挙 (英語)

ハワイ州上院議員 (1924-2012)

サカエ・シゲカワ

喜んで医学校へ送り出してくれた両親 (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

サカエ・シゲカワ

良い助言を受けて (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

ヘンリー・須藤

日本陸軍に入隊させられる (英語)

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)