ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1399/

子どもの頃のアメリカへのイメージ

そうですね、僕、全くアメリカを知らないで、日本の子どもとして、とにかくわんぱくで、ずいぶん好きな事をやらせてもらいました。だからこういう生活が出来ると言うのは、本当に僕にとっては当たり前だと思っていたんですよ。その当たり前の生活の資金が、お金がアメリカから来ているという事を全然知りませんでしたしね。

僕にとってのアメリカというのは、自分の家にあった家具、それから食器類、親父が持って帰った道具、大工道具とかの色んな道具、僕のおもちゃはほとんどアメリカ製でしたから。だから僕にとってのアメリカというのはあれですね。

そうしてもう一つ僕にとって本当に嫌で嫌でたまらなかったのはジーパンツです。僕が小学校入った時にね、わんぱくで学校のユニフォームをいつも汚す。ところが梅雨になると、鹿児島なんかひどい時には二十日間くらい雨が降り続けるんで、洗濯しても乾かないんですよね。ユニフォームが二つともお袋が洗って乾かないんで、お袋が嘆いていたら、親父が「このヤツはもうどうしようもないからジーパンツはかせてやれ」って言うんでジーパンはいて学校へいったら、もう校門入ったとたんにね、全校生徒といってもいいくらいに囲まれちゃって「なんだ、なんだお前。それはなんていう服だ?」と言われて。もう本当にジーパンツで、上級生には小突くやつもいますしね。


世代 日本 日系アメリカ人 帰米 二世

日付: 2012年1月31日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1929年、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれる。1931年、反日運動が盛んになる中、子どもの将来を心配した父が、家族全員で日本へ帰国すること決意。生後18ヶ月にして、日本へ渡る。1952年18歳の時、アメリカへ帰国。以来アメリカで生活を送る。現在はカリフォルニア州ローズミード在住。(2014年6月)

マーガレット・ナルミ

野球の殿堂(英語)

NHKコスモメディアアメリカ プロデューサー

マーガレット・ナルミ

1995年の野茂旋風

NHKコスモメディアアメリカ プロデューサー

マーガレット・ナルミ

ドジャースがMLBにもたらした国際化の波

NHKコスモメディアアメリカ プロデューサー

エーシー・コオロギ

ウォルター・オマリーの哲学(英語)

ロサンゼルス・ドジャース元アジア部門部長

ジーン・玻満子・シュナイダー

アメリカへの移住して良かったこと

戦争花嫁(1925年生)

上杉 武夫

ニューヨークで学んだ後、日本に帰国(英語)

一世のランドスケープアーキテクト(1940~2016年)

上杉 武夫

米国に残り市民権を取得する決意(英語)

一世のランドスケープアーキテクト(1940~2016年)

ウィリー・イトウ

両親(英語)

第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)

パウロ・イサム・ヒラノ

デカセギに来ていた父に呼び寄せられ日本へ移住

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

大泉とブラジルの日系コミュニティとの違い

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

大泉町がふるさと

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本に移住した理由(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本に住むメリット(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

大泉町の日系ブラジル人への政府の支援(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本のブラジルタウン・大泉町(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)