ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1085/

両国の架け橋となることを目指して(英語)

(英語)僕は天秤座なのですが、調和を求め、争いを嫌悪し、自分がどうすべきかいつも考えます。前にも言いましたが、僕は、日本は誤解されていると感じていて、僕の使命は架け橋になることだと思っています。日本側に、君たちが完全に正しい訳じゃないよ、と意見することも僕の役割の1つです。 僕は、二世は日本とアメリカの架け橋にならなくてはならない、と一世の人たちに言われたことを今でも覚えています。その言葉は常に僕の心のどこかにあって、日本の立場をアメリカ側に伝えなければ、と思うし、日本側にはアメリカの立場や彼らが何故怒っているのかなど、説明しなければならない、と思うのです。僕の気質なのでしょうか、争いごとは嫌ですね。


アイデンティティ 多文化主義 (multiculturalism)

日付: 2005年3月25日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ソージン・キム

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

セドリック・シモ氏は、1919年に生まれ、ロサンゼルスの多人種が混在する地区ボイルハイツで育ちました。シモ氏は、ボーイスカウト活動や剣道に取り組み、日系人スポーツクラブのクーガースでも活発に活動しました。シモ氏は、カリフォルニア大学バークレー校の大学院に在籍していましたが、真珠湾攻撃の次の日、徴兵令状を受け取りました。彼は、アメリカ陸軍情報部語学学校への配属を希望しました。しかしながら、休暇中にマンザナーに強制収容された母親への訪問を禁じられたことに激怒し、外国戦線への参加を拒否しました。その結果、彼は、工兵第1800大隊に配属されました。この部隊には、疑いをかけられたドイツ系、イタリア系、日系人が配属され、戦闘隊が訓練中に壊した道路、橋、フェンスの修復工事にあたりました。シモ氏は、工兵第1800大隊を名誉除隊した後、ボイルハイツへ戻り、ホンダに就職し、輸出担当部門で副代表となりました。

2008年11月20日、日本政府は、日米貿易摩擦が問題となった時期、当時ホンダで働いていたシモ氏が、両国間の貿易推進に寄与したことを評価し、旭日双光章を授与しました。

2020年4月、100歳で亡くなりました。(2020年4月)

ミツエ・ヤマダ

詩を通して自分を表現(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ファン・アルベルト・松本

エスコバールについて(スペイン語)

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

モニカ・タイシャ―

ニッケイの定義(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。