ディスカバー・ニッケイ

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日系アイデンティティ(スペイン語)

(スペイン語)「日系人」になる方法は二つあると思います。中からの日系人と外からの日系人というのが考えられます。日本人移民の子孫として日系人というふうに位置づけられるかも知れませんが、本人のアイデンティティーとしては日系人でないかもしれないのです。また、日系人であってもその日系社会には参加せず、習慣や風習も、信教や宗教的行事(法事等)とは無関係なのですが、どうみても(外面的は)日系人なのです。しかし、私が知っている以上彼たちはそうでないと区別するのです。これまで指摘してきたことなのですが、彼たちはこの日系人という位置づけにも異議を唱えてきたのです。それはペルー人としてみられない恐れがあるからなのです。その(ペルーへの)忠誠を疑われたくないのです。でも、実際は、日系人でありながらみんなペルー人であるということはまぎれもない事実なのです。 でも、ここがポイントなのです。日系人でないと否定する人たちは逆にあまりにもそのことを強調するため、それが疑わしく思えるのです。そうでないという意識より、ペルー人でないということを疑われることに脅えているのです。


ハワイ 日系アメリカ人 日系 ペルー アメリカ合衆国

日付: 2008年2月26日

場所: ペルー、リマ市

インタビュアー: ハルミ・ナコ

提供: ペルー日系人協会 (APJ)

語り手のプロフィール

ドリス・モロミサト・ミアサト氏は、1962年ペルー、リマの農村部であるチャンバラで生まれました。法学と政治学の学位を取得し、国立サンマルコス大学を卒業しました。

ミアサト氏は、詩集、『Morada donde la luna perdió su palidez』(1988年)、『Chambala era un camino』(1999年)、『Diario de la mujer es ponja』(2004年)、『Paisaje Terrestre』(2007年)を出版し、2006年には、書籍、『沖縄 : ペルーにての1世紀』を出版しました。ミアサト氏の詩やショート・ストーリー、エッセイ、記事は、様々な選集に収められており、多言語に翻訳されています。

ミアサト氏は、自らをエコロジスト、フェミニスト、仏教徒であると語ります。2006年、沖縄県は、ミアサト氏を親善大使に任命しました。最近では、ディスカバー・ニッケイ・ウェブサイトのコラムニストも務め、2005年からは、「Cámara Peruana del Libro」の文化担当としてブックフェアを開催してきました。(2008年2月26日)

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