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第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)
(英語)軍隊では、靴が磨かれ、ズボンにきちんとアイロンがかけられ、きちんと敬礼が出来き、清潔な者が良い戦闘兵士だと強く信じられていました。ですから軍隊では、ある意味で外見と戦闘効率が直接結びついていたのです。それは事実とかけ離れています。第100歩兵大隊などは見た目が最悪ですから。外見だけを見れば、皆背は低いし、全てにおいてダメでした。
ハワイ諸島から来た者は更に悪く、私の小隊にいる半数の者は農園から来ていましたから、一度も靴を履いたことがなく、靴の紐を結ばないのです。結ぶと足が痛くなるからです。本当に痛むのです。そして靴の紐を結ばないから、ズボンの裾を靴に入れて、上のズボンをたるませることもしませんし、ゲートルも着用しません。またシェルビーは暑くて湿気がひどいですから、ハワイアンスタイルでシャツの裾をズボンの外に出して・・・(アロハシャツの裾を出して着ているのを指して)ちょど今私がしている様にね。それから彼らは髪を切りませんでした。
ですから、私が小隊員に髪を切らせ、シャツの裾をズボンの中に入れさせ、靴の紐も結ばせようとしても、とても無理なのです。44対1で負けます。中隊全部を訓練するとなると180人、190人の隊員の反対にあうことになります。下士官の何人かには徹底できましたが、全員をきちんとした髪型、ミリタリースタイルといいますか、にさせることは出来ませんでした。しかし戦闘に出たとき、この様な価値感は全く意味がないことがわかりました。その人が戦闘効率が良いかどうかは外見と何の関係もありません。
日付: 1995年8月28日
場所: 米国、カリフォルニア州
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ヨンオク・キム大佐(米国陸軍退役軍人)は、第442連隊戦闘団第100歩兵大隊の一員として第二次大戦を戦い、叙勲された退役軍人であり、コミュニティリーダーとして多くの人々に尊敬されています。キム大佐は、1919年カリフォルニア州ロサンゼルスの朝鮮系移民の家庭に生まれました。 戦争の勃発と共に、彼は日系二世のみで構成された第100歩兵大隊の一員となりましたが、軍は、キム大佐と日系人の間に摩擦が生じることを懸念し、別部隊への異動を提案しました。しかし、彼は日系も朝鮮系も同じアメリカ人である、と主張し、その提案を拒否しました。生まれながらのリーダーとしての才覚と戦場での鋭い直感力、キム大佐の戦場での偉業は伝説的でさえあります。 キム大佐は、朝鮮戦争で再び戦地へ戻り、マイノリティとしては初めて大隊長に任命されました。1972年に退役した大佐は、殊勲十字章、銀星章、2度の青銅星章、3度のパープルハート章、フランス政府からの戦功章を含む19の勲章を授与されました。 後年、キム大佐は、ゴーフォーブローク教育基金、全米日系人博物館、韓人健康情報センター、韓国系アメリカ人連合など、数多くの団体の立ち上げを支援し、アジア系コミュニティに貢献してきました。キム大佐は、2005年12月29日癌のため、86歳で亡くなりました。(2008年8月8日)
カナダ政府による日本送還への圧力 (英語)
医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)
同胞の援助と協力 (スペイン語)
日系ペルー人画家 (1932-2016年)
日本語学校の閉鎖と日本人の強制送還 (スペイン語)
出生地のもつ意義に気づいて (英語)
太鼓・尺八奏者(1944生)
記者の責任 (英語)
ジャーナリスト (1915 - 2007年)
話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)
JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長
それでも、日本人 (英語)
音楽家 (1922年)
兵役志願(英語)
政治活動家 (1917 - 2004)
真珠湾攻撃の記憶 (英語)
ハワイ州上院議員 (1924-2012)
FBIとラジオ (英語)
父からの言葉 (英語)
国家への忠義に関する質問 (英語)
徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)
公平委員会 (英語)
収容所の中での意思表示 (英語)
立場を明らかにすることへの願望 (英語)