メキシコ: 『海外事情写真帳』(1931)より
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『御即位御大典記念-海外事情写真帳』(関門高等洋裁女学校、1931)から抜粋したメキシコへの移民の写真コレクションです。 これらの写真から当時のメキシコへの移民について、その一部を見ることができると思う。 原本に掲載されていた写真は、どれも興味深い写真ではあったが、特に個人的に興味を持ったものを抜粋し、スキャンして紹介することにした。 写真をクリックすることで、オリジナルの写真のページにジャンプするが、そこでは各写真に添付されていた説明文のトランスクリプトを見ることができる。 また、『海外事情写真帳』は昭和天皇即位を記念し。1931年に発行されたものである。 編者である佐村福槌氏が、メキシコに滞在中に写真集出版を思いつき、写真を集めたとのこと。 また、この写真帳には、メキシコの他にも、ペルー・北米(アメリカ・カナダ)が含まれており、徐々に他の国の写真についても掲載していく予定である。
Slides in this album |
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日本人歯科医1917年の日本とメキシコの条約により、日本の医師免許がメキシコでも有効になった。 当時、メキシコ社会に友好的に受け入れたれていた日本人であったが、彼もその一人であるといえるだろう。 |
メキシコ革命と日本人1911年に始まったメキシコ革命。 右の写真、石渡氏のように革命の被害を受け、多大な損害をこうむったものも少なくない。後に、賠償金として、損害額のいくらかを国から返金されたものもいるが、当時のメキシコの生活は日本人コミュニティだけでなくメキシコ人にとっても非常に厳しいものであった。 一方、左の山根氏のように、メキシコ軍へ抜擢される日本人も少なくなかった。 当時の日本は軍事大国として着々と力を伸ばしている時期であり、日本人は実力のある勇敢な兵士であると考えられていたようだ。 実際、革命軍・連邦政府軍に所属する日本人は数多くおり、パンチョ・ビリャの暗殺に加わった日本人もいるくらいである。(これは未遂に終わっているが・・・)
石渡 徳治 氏 (右) ・ 山根 喜三郎 氏 (左) |
ペルーからメキシコへ入国アメリカと日本の間で結ばれた「紳士協定」(1908)ゆえに、日本はメキシコへの日本人の契約移民の入国を禁止せざる終えなくなった。 その前後、メキシコへはぺルーをはじめ他のラテンアメリカ諸国からの入国者が増えていた。 |
国境をまたがるビジネスこの兄弟はアメリカとメキシコを行き来する運搬業を行っていた。アメリカとメキシコの国境の町ならではのビジネスといえるだろう。 当時、日本人移民に対しても門戸を閉ざしていたアメリカとこのようなビジネスを行っていた日本人は、やっぱりいたんですね。 余談ではあるが、アメリカの日本人に対する移民政策が厳しくなると共に、カリフォルニア州南部からメキシコ北部へと移住するものが増えた。それはまさにこの時期の出来事である。 |
El Sol Naciente (Rising Sun)こちらも北墨によくみられた食料雑貨店のひとつ。 ここで注目していただきたいのは、店の名前。 |
チワワの食料雑貨店他国の日本人移民と同じく、メキシコでも雑貨店経営を行う一世の方は多かった。 チワワという場所柄だろうか?写真の左側には「ABARROTES」とスペイン語で右側には「 また、写真左隅にある樽は何の樽かわからないが、醤油樽に見える。 |
タイヤ業『海外事情写真帳』にはメキシコでタイヤ業を営む日本人の写真がいくつか掲載されていた。 戦後の日本で、タイヤ業を始めて大当たり・・・という話は聞いたことがあるが、この当時より、日本人が海外でタイヤ業を営んでいるという事実にびっくりした。 |
メキシコ人と結婚メキシコでは、日本人男性とメキシコ人女性の夫婦は珍しいことではない。 日本人移民が少なかったというのが一番の要因だと思うが、日本人はメキシコ社会では友好的に受け入れられていた。 当時のアメリカのように、日本人と結婚したからといて、メキシコ人女性の市民権が剥奪されることはなかったし、日本人でもメキシコの市民権を得ることは可能であった。 |