「残留孤児だったかもしれない」
私が高校生の時、中国残留孤児と呼ばれる人々が来日し、記者会見を開いた。彼らは日本のどこかで暮らしているかもしれない親に対して、中国語で涙ながらに「会いたい」と呼びかけていた。日本語を理解しない人民服姿の彼らはどう見ても中国人にしか見えなかった。しかし、実際は戦後まもなく、当時の「満州」で親と離れ離れになり、中国人によって育てられたれっきとした日本人だった。私の母は、その記者会見の映像を見るたびに号泣しながら「私もあの人たちのように残留孤児になっていたかもしれない。他人事とは思えない。しかし、私の場合は母親が必死で、弟と妹と一緒に日本まで連れ帰ってくれた。感謝してもしきれない」と口にした。
当時の私が「満州」に抱いていたイメージは、第二次大戦前に中国に存在した日本による傀儡国家という、漠然としたものだった。しかし、そのイメージは、その後、山崎豊子が書いた、中国残留孤児を主人公にした「大地の子」を読み、満洲国の傀儡皇帝を描いた映画「ラストエンペラー」を見ることで、少しずつ具体性を伴うものとなった。
私の母、福田恵美子(旧姓は河野)は昭和12年(1937年)、満州で生まれた。最初に満州に渡ったのは、私の祖父に当たる河野進だった。大分県の日田林工高校を卒業した進は、満州の木材の伐採所に就職し、やがて故郷の大分県から妻、カヨを迎えた。製材業を営んでいたカヨの父は、最初、進の父が「カヨさんを息子の嫁に」ともらいに行った時、「満州のような遠い土地に娘はやれない」と断ったそうだ。しかし、その後、その父が亡くなったことで遺族から許しが出て、進とカヨは昭和10年(1935年)に祝言を挙げた。
優しかった父、進の思い出
進とカヨの新婚生活が満州ではじまった。その2年後に恵美子が生まれ、さらに年子の英範(ひでのり)も誕生。しかし、英範は赤痢ですぐに亡くなってしまった。
恵美子の記憶では、満州内を何ヵ所か引っ越したが、最後に住んだ綏化(スイカ)という土地の光景だけが鮮明に残っているという。
「小学校2年までそこで過ごした。大通りから路地に入ったところに二軒長屋の家があって、我が家は通りから見て左側だった。右側には父の会社の所長さんが住んでいた。大通りに出ると、水月という大きな料亭やパン屋、映画館と何でもあって、大きな街だった。家から駅までは徒歩で30分くらい。家の造りもよく覚えている。赤煉瓦造りの西洋式で、玄関を入るとすぐ左に8畳ほどの部屋、右側は台所だった。その先に6畳ほどの部屋があり、真ん中にはペチカ(ストーブ)があった。床はオンドル。一番奥にお風呂とトイレがあったが、お風呂と言えば、家ではなく街の中にあった銭湯によく通っていた。また、庭の真ん中の花壇には、綺麗な花が咲いていたことを鮮やかに思い出す。花と言えば、通学路の周囲に広がっていたジャガイモ畑一面に咲いていた白い花もまた美しかった」。
父の進は単身赴任だった。ソ連に近い山岳部で伐採作業に従事する中国人の労働者を束ねる仕事で、週末になると家に戻り、また日曜には職場に向かった。
「父はとても優しい人だった。父が帰ってくると、家族で外食に出かけたり、銭湯に行ったりした。しかし、その優しい父に一度だけ叱られたことがある。何の弾みだったか、父の背広のポケットに私が手を入れたことがあった。すると父は『人のポケットに手を入れるものではない』と烈火の如く怒り出したのだ。あの時のことは今でも忘れられない」。
通った小学校は日本人学校で、当然、友達は皆、日本人だった。
「仲が良かったのは秋田出身のサワダアキヒコくん、そして石黒カズコさん。石黒さんは有名な柔道家、石黒敬七さんの姪だった。それからどこの出身だったか思い出せないけどササキレイコさん。彼女からは日本に引き揚げた後に手紙が届いたが、ゆとりがなくて交流は続かなかった。奈良出身の野木さんとも仲良くしていた。クラスメイトの故郷は日本全国に散らばっていた」。
豊かだった満州での生活
当時の満州では日本人が最上級に位置付けられていたはずだが、中国人、ロシア人、朝鮮人といった他の民族に対する差別は行われていたのだろうか。それに対して恵美子は「私たちの日本人学校になぜか、アレキセイという名前のロシア人が通っていた。日本人の児童の中にたった一人のロシア人だった。近所には朝鮮人学校もあった。親から日本人以外と付き合ってはいけない、と言われた記憶は全くない。しかし、朝鮮人や中国人とは交流がなく、全て日本人社会の中で生活が完結し、当然、日常の言語も日本語だった」と答えた。
「自分がまだ子どもだったから分からなかっただけかもしれないが、人種間同士の諍いのようなものも記憶にない。しかも満州の治安は非常に良かったように思う。いつも子どもだけで小学校から30分ほどの道のりを歩いて帰ってきたが、危ない目に遭ったことはない」。
恵美子にとっての鮮烈に残っている満州の記憶と言えば、食べ物だ。
「特にロシア人が作るソーセージやピロシキが本当に美味しかった。ある時、母に肉の買い物を頼まれて街に出たが、私は預かったお金で肉ではなくピロシキを買って帰ってしまった。母には酷く叱られた。売っている物だけでなく、母が家で作る水餃子もとびきり美味しかった」。
日本人学校での友達との交流、異国情緒が感じられる街での生活、恵美子にとって満州での子ども時代は「豊かで平和」そのものだった。しかし、その色合いは昭和20年5月の父の徴兵を境に大きく変わっていった。