オレンジ色の絨毯が太陽の光でキラキラ光る町に、ぼくは引っ越してきた。
「カリフォルニアポピーっていう花だよ。黄金みたいできれいだな」と、車を運転しながらお父さんが言った。
「ふうん」
車窓からひゅんひゅん流れていく景色は、今まで住んでいた名古屋の町とは全然違う。なにもかもが大きくて、広くて、においも空気も、道を歩いている人たちの姿も違う。
窓の外のキラキラした明るい世界とは裏腹に、ぼくはさみしくて心細くてこわくて、今にも雨が降り出しそうな鈍色のくもり空。
お父さんの仕事でアメリカに引っ越すって決まって、五年一組のクラスの友達に言ったら、みんなの目がキラッキラに輝いた。
「いいなー、彪悟!」とか、「すごい! うらやましい!」とか、「私もロサンゼルスに住んでみたい! かっこいいなあ」とか言ってたっけ。
だからぼくは、ほんとうの気持ちは口からのどへ引っ込めてにこにこしながら、「ぼくもすごく楽しみなんだ! 英語の勉強もがんばってるんだよ」と答えた。
「ええー、彪悟くんなら英語大丈夫でしょー?」美結ちゃんがぼくの肩をポンと軽く弾いて言った。
「ロサンゼルスは、名古屋と姉妹友好都市なんだよ」担任の塚本先生が言った。
「シマイユウコウトシ?」
「簡単にいうと、町同士がなかよしってことかな。北緯が近いんだよ。地球儀で見てごらん」
塚本先生に言われて、黒板の左にある棚から地球儀を持ってきて、くるくる回しながらロサンゼルスと名古屋の位置を調べた。左手の人差し指で名古屋、右手の人差し指でロサンゼルスをおさえてみる。
「ほんとうだ! 横の線が一緒だ!」
「そういえばこの前、姉妹友好都市の特別給食あった!」壱星くんが言った。「ほらあれ! なんかおしゃれなやつ! 鶏肉と丸いパンと野菜とたまねぎスープとゼリー!」
「あー! あったあった!」
「おいしかったよねー!」
給食が終わった後の休み時間、窓から流れてきたそよ風が壁に飾られた習字の半紙をぱたぱたとめくりあげる教室で、そんな話をしていたのが恋しくてたまらない。
ぼくはしめった灰色の気持ちで、鮮やかなオレンジジュースを飲みながら、流れる景色をみつめた。今日はどこへ行くんだろう。
お父さんは休みの日に車であちこち連れて行ってくれる。
まだロサンゼルスに来てから一か月も経っていないのに、遊園地に水族館、博物館、それから野球の観戦、バスケットボールの試合も見に行ったし、先週は大きなテーマパークに二つも行った。
たぶん、ぼくが早くこの町を好きになるために、お父さんはがんばってくれているんだと思う。仕事で疲れているのに、ぼくのことまで気にしなくちゃいけないなんて、家でも休めなくて大変だよね。
ごめんね、お父さん。ぼくも早く気持ちを切り替えて、この町に慣れて、たのしく過ごしたいんだけど……。
お母さんが生きてたら違ったのかな。どうだろう、わかんないや。それに、お母さんが生きていたら、お父さんはきっとロサンゼルスに住もうなんて言わなかっただろうし。
ぼくはリュックからスマホを取り出して、画面を見つめる。待ち受けに設定してある、ぼくとお母さんとお父さんの写真。
ぼくのとなりでほほ笑んでいるお母さんはあの日のまま、時間が止まっている。
「お母さん、ぼく、ロサンゼルスで暮らすことになったよ」心の中でつぶやく。
「学校には、ぼくと同じように親の仕事でこっちに来た日本人の子がたくさんいて、学校の中は日本みたいだよ。ひとりで遊びに行けないから、ゲームする時間が増えちゃった」
お母さんと暮らした家は、すみずみまでお母さんの思い出が詰まっていたから、本当は引っ越しなんかしたくなかった。だけど、お父さんはつらかったのかな、思い出がありすぎて。リビングにも、キッチンにも、階段にも、お母さんの声が聞こえてくる。お母さんのにおいがする。お母さんの足音が聞こえてくる気がする。
お葬式が終わって二週間が過ぎた金曜日の夜、お父さんがお皿を洗いながら泣いてたのを見た時、ぼくはどきっとした。ぼくと目が合ったお父さんは涙を拭いて、弱くほほ笑んだ。
「このお皿、結婚して二年目の春に瀬戸に行って、さゆりちゃんと一緒にろくろを回して作ったんだよ」
「お父さんが作ったのはそっち?」ぼくは洗い終わって水切りしている分厚い楕円形の皿を見ながら言った。
「ああ、おれは不器用でうまくできなかった。でも、さゆりちゃんは完璧な丸い皿を作って、工房の人にも褒められたっけなあ」お父さんはスポンジを置いて泡を水で流すとお皿を丁寧に置いた。
お父さんとお母さんが作ったお皿は、今までずっと戸棚の奥にしまわれていたけれど、今は大活躍している。朝のパンケーキも、おやつも、ハンバーグもタコスも、なんでも載せる。
ぐうぅ
お腹が鳴った。お母さんのご飯が食べたい。お母さんの作ったおやつが食べたい。ああそうだ、いちごの入った大福、春になるとよく作ってくれた、あのいちご大福が食べたいよ、お母さん。
「腹が鳴ったな! 寿司食べに行こう!」
お父さんはそう言って、鼻歌を歌いながらハンドルを切った。ウエストテンプルストリートをまっすぐまっすぐ進んで行く。
窓の外を見ると、オレンジ色のお腹をした鳥が飛んでいた。
ぼくにも羽があって、空が飛べたらいいのに。そうしたら、飛んで、家に帰れるのに。
ああでも、飛行機で十二時間もかかったんだった。羽が生えて空が飛べても、一体何時間飛び続けなきゃいけないんだろう。
ぼくが空想の羽をばさばさと羽ばたかせていると、車は停まった。
「え」
ぼくの目はまんまるになって、飛び出すかと思った。それくらい驚いた。
目の前に、夏祭りがあったから。
赤いちょうちん、赤い火の見やぐら、赤い鳥居まである! それに、このにおい。日本のにおいがする。
「ここ、なに?」ぼくは胸をドキドキさせて聞いた。
「リトル東京だよ。寿司も、ラーメンも、和菓子もなんでもあるぞ! 食べ物だけじゃない。日本の文化がここにあるんだ。」
ぼくはきょろきょろ見ながらリトル東京の町を歩いて行った。たくさんの人でにぎわっていて、観光客っぽい人たちが「縁日祭り」と墨で書かれた白い提灯の並んでいるところで写真を撮ったりしている。
「あ!」
ぼくの前を歩いていた女の子が、リュックからなにか落とした。拾ってみると、日本のキャラクターがついたコインケースだったから、ぼくは小走りしながら女の子に日本語で声をかけた。
「ねえ、落とし物だよ!」
ぼくの声に振り向いた女の子は、コインケースと同じキャラクターがついたTシャツを着ていた。太陽の光に当たった黒髪が明るいオレンジ色に輝いていて、まんまるのこげ茶色の目がぼくをじいっと見つめる。
「ほらこれ、きみのリュックから落ちたよ」ぼくがコインケースを見せると、女の子は一瞬、目を大きく開いてからキラキラの笑顔を見せた。
「thanks!」
うっとりするような笑顔で女の子はコインケースを受け取り、緑色のオーニングテントのついた白い建物の中に入って行った。なんのお店だろう……。
和菓子屋さんだ!
「お父さん、おやつ買ってもいい?」
「ああ、もちろんだ!」
お店のショーケースには、カラフルなお饅頭が並んでいた。おせんべいもわらび餅も売ってる。ピンク色のは桜餅かな? ピンクと白と黄緑色のしましまのはなんだろう。
どれもおいしそうだなぁ。
その時、迷っていた視線がぴたりと止まった。
ふわふわのやわらかそうな白いお饅頭の上に、つやつやのまっかないちご。いちご大福だ!
「お父さん……。いちご大福……」ぼくはそれだけ言うのがせいいっぱいで、口をぎゅっと結んだ。目がじーんと痛くなって、涙がたまってきた。
お母さん、お母さん、お母さん!
お父さんが困ったようなかなしいような優しい顔をして、ぎゅうっとぼくを抱きしめてくれた。
お父さんの服のにおいがする。レモンみたいな柑橘のにおいと、太陽のあったかいにおいと、苦いコーヒーみたいなにおい。
「くるしい」ぼくがそう言って笑うと、お父さんも眉毛を下げて笑った。
「Are you all right?」
声がして振り向くと、さっきの女の子が眉毛を寄せながら心配そうにぼくを見つめていた。
「だいじょうぶ、ありがとう」ぼくが日本語でそう言うと、女の子は首をかしげた。
「ぼく、日本人だよ。びっくりした? 日本で産まれて、日本で育ったの。だから日本語でだいじょうぶだよ」ぼくは平気な顔で言った。
こういうのは慣れてる。ぼくの見た目は日本人に見えないから。「外人だ」って言われるのも、じろじろ見られるのも日本で毎日のことだったし。しかもここはアメリカで、そしたらやっぱり、英語で話しかけられるのは当たり前のこと。だから、この子は、ちっとも悪くないし、傷つく理由なんてない。そうだよ……。
「ああ、ごめんね。孫のリリーは日本語がわからないんだよ」
ショーケースの前に立っていた白い服の職人さんぽいおじいさんがやさしい声で言った。
「え」ぼくはびっくりした。
「いらっしゃい。日本から来てくれたの?」
「うん。名古屋から。おじいさんたちはずっとロサンゼルスに住んでるの?」
「ああ」おじいさんはほほ笑みながら頷いて言った。「ルーツは日本にあるけどね。私たちはロサンゼルスで産まれてロサンゼルスで育ったんだよ。私は日本語を母から教わったから話せるけど、孫はまだ勉強中なんだ」
「あ……」
ぼくは恥ずかしくて顔から火が出そうだった。ぼくと同じなんだ。ぼくは見た目で判断されたくなくて、勝手に落ち込んでたのに、ぼくも見た目で決めつけてたんだ。
「ひさしぶり! ケン、元気?」
お父さんがグーにした手を突き出して、おじいさんに向かって言った。
「おお、久しぶりだな、ジャック! ずいぶん顔を見てなかったぞ、いつ帰ってきたんだ? サユリは元気か?」
「ああ……。ケン、サユリは雲の上にいるんだ。去年十二月に、癌で」お父さんはそれまでの明るい声から、湿ったさみしそうな声になっていた。
「なんてことだ……」ケンと呼ばれたおじいさんの顔が青ざめて、今にも雨が降り出しそうな曇った顔になった。「ああ、残念だよ。とても残念だ。また会いたかったよ」
おじいさんが声を震わせて、顔を両手で覆った。肩がフルフルふるえている。
「おじいさん、ぼくのお母さんを知ってるの?」
ぼくが聞くと、おじいさんはハンカチで顔をぬぐい、ぼくをじいっと見つめた。濡れたこげ茶色の目がぼくの奥の奥まで見つめる。
「ああ、きみはサユリの息子か。サユリによく似ているね。サユリはこの店の常連さんだったんだよ」おじいさんがショーケースの横からぼくのほうに歩いてきて、しゃがんでぼくの手を握りながら言った。
「サユリはうちのいちご大福が大好きでね、「世界一おいしい」って言ってくれたよ。きっかけは、ジャック。きみのお父さんだった」
「お父さんが?」ぼくはお父さんの方を見上げた。お父さんはちょっと照れたような恥ずかしそうな、見たことない変な顔をしていた。
「サユリがさみしい時、悲しい時、ホームシックになった時、テストで大ピンチの時、ジャックは必ずうちに来て、いちご大福を山ほど買っていった。サユリが元気になるように、サユリが笑ってくれるように。「魔法のおやつだ」って、ジャックは言ってたな」
「ぼくも……、ぼくも、いちご大福大好きだよ。お母さんが春になると作ってくれたんだ。甘くて、じゅわあってして、ふわふわで……。お母さん……」
「ヒューゴ!」
お父さんがぼくに覆いかぶさるように抱きついてきて、ぼくたちは泣いた。赤ちゃんみたいにびえぇびえぇ泣いた。
「私も、いちご大福好きよ。かわいくて、ハッピーな味がするもの」そう言って、リリーがいちご大福を六個包んで渡してくれた。
みんな二個ずつ。
お父さんが二個、ぼくが二個、天国のお母さんにも二個。
「ありがとう、リリー。ぼくはヒューゴ。また来るね、仲良くしてくれたらうれしいな」
「ええもちろん、私も友だちになりたいなって思ってたの」リリーは桜が咲いたみたいな笑顔で言った。「リトルトーキョーへようこそ!」
明るい青空にオレンジ色のお腹の鳥が飛んでいる。ぼくの知らないお母さんの思い出が、この町にある。もうさみしくないよ。お母さんはここにいるんだ。
はじめまして、よろしくね。リトルトーキョー!
声優の佐古真弓による平山美帆さんの作品「COLOR」の朗読。第10回ショートストーリーコンテストの日本語部門での最優秀賞作品。2023年5月20日開催の第10回イマジンリトル東京ショートストーリーコンテスト授賞式にて。リトル東京歴史協会主催、全米日系人博物館ディスカバーニッケイプロジェクト協力によって粉われました。
* このストーリーは、リトル東京歴史協会による第10回ショートストーリーコンテストの日本語部門での最優秀賞作品です。