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日系(ニッケイ)—をめぐって

第28回 日本国籍というアイデンティティ

フィリピン残留日系人は訴える

「日系」の定義とは何か。辞書(大辞林)によれば「日本人の血統をひいていること。またそのひと」という。「日系人」の定義も同様に、日本人の血統(血筋、血のつながり)をひいている人、と考えていいだろう。

これに従えば、日本人もまた日系人ということになるが、一般的にはそうはいわない。ほかの血統をひいていないからだ。一般に日系人というとき、日本人以外の血統もひいている人のことをいう。ただし、南米・北米にいわゆる移民として渡った日本人夫婦の間に生まれた2世、さらにこうした2世同士の間に生まれた3世は、日本人以外の血統をひいていなくても日系(人)と言われる。

彼らは、日系アメリカ人とか日系ブラジル人などと言われるが、この場合の「アメリカ人」「ブラジル人」は国籍を指すと思われる。こうしてみると、同じ「○○人」という場合でも、血統を示す場合と、国籍を意味するときがあるのがわかる。

前回のこのコラムで最後に触れたフィリピンに残された日本人の血統をひく人たちは、日系ともいえるが、国籍の面からすれば日本人ともいえる。彼らは、日本人の父親とフィリピンの女性との間に生まれた日系であり、当時の日本の国籍法上、父親の国籍で子どもの国籍が決定していたので、父親が日本人であれば日本人となってしかるべきだった。

しかし、アジア太平洋戦争の戦場のひとつとなったフィリピンにいて、戦中・戦後の混乱のなか父親との関係が断絶し、また関係を示す証拠も消滅するなどし、日本人であることが証明できなくなってしまった。加えて、日本軍に対するフィリピン人の反感・憎悪から日系であることを隠す必要もあったことなど、様々な理由で日本人であることを求めなかった。

その後、時とともに反日感情も収まっていき、自分がいったい何者なのかを明らかにしたい、日本人であることを確認したい、という気持をもつ人も増えてきたようだ。そして、戦後78年たった今も日本人としての国籍を回復したいという思いを抱いている人たちがいる。


日本政府の対応の鈍さ 

こうしたフィリピン残留の日系人については1980年代からジャーナリストらによって明らかにされ、中国残留日本人孤児同様に彼らの身元確認や日本国籍回復に対する支援の動きがでてきた。しかし、これに対して国の対応は鈍かった。『ハポン フィリピン日系人の長い戦後』(第三書館、1990年刊)のなかでそれは明らかだ。

著者の大野俊氏が当時、外務省領事移住部の移住課長に取材、この問題をどう受け止めているかを尋ねた。これに対して移住課長の言葉は耳を疑うようなものだった。以下、そのまま紹介する。

「日系人にだって、国籍を選ぶ自由はある。帰化や永住もあるんです。戦後、彼らだって日本に帰ろうと思えば、帰れたんです。当時、日本は焦土で、フィリピンと差がない状態でした。その後、日本人は一生懸命働いて、経済大国になりましたが、フィリピンはそうはならなかった。それを今ごろになって、日本に帰りたいとか言ったって……。あの当時、フィリピンに居残ることにした自分の判断に、彼らも責任を持つべきなんです」

この課長は、戦後のフィリピンで、父を失った日系フィリピン人が、自由な意思に基づく行動などできるような状況になかったという事情をまったく理解していなかった。そうした事情に追い込んだのは、フィリピンを戦場とする日本の身勝手な軍事行為の結果だということへの想像力のかけらもないといっていい。

また、他国を戦場として、多くの民間犠牲者を出し、その国の国土を破壊するなどし健全な発展を阻害した可能性が多大であるのに、日本が戦後目覚ましい復興を遂げたことを自画自賛するかのような言葉からは、戦争責任の自覚のかけらも感じられないばかりか、“上から目線”の傲慢な態度すら感じられる。

さらに、課長は大野氏に対して「あなたはなんでそんなにフィリピンの日系人を問題にするのか」と問い、国がフィリピンへの有償・無償援助をしていることをあげて、日本人の血を持つものだけに援助するすることは現地から批判される、といういかにも問題に取り組まないことを正当化する官僚らしい理屈を披瀝している。


フィリピン日系人リーガルサポートセンター

この時点からもっと国が積極的に関与していたら、日本人であることの確認を求める多くの人々の問題を解決できただろうと思わざるを得ない。というのは、民間が主導した彼らの国籍回復の支援活動は長年にわたって行われ、いまも続いているからだ。

支援活動を行っているのは、認定NPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)」で、2003年に任意団体として発足した。代表理事のひとり、弁護士の河合弘之氏は、『原発訴訟が社会を変える』(集英社新書)などの著書があり、近年は脱原発訴訟への取り組みでも知られる。

1944年満州で生まれ、1歳の時引き揚げてきた河合氏はこのとき弟を亡くした。こうした自らの経験を踏まえ、これまで人道支援として中国残留日本人孤児の国籍取得の活動にも取り組んできた。

「経済的に豊かで、現地の人たちとも仲良く暮らしていたフィリピン日系人社会をたたきつぶしたのは日本軍ですから、これを再建するのも我々日本人の責務だと思います。そのためにはより多くの残留2世の親を捜し出し、2世の国籍を確認し、彼らのアイデンティティを確立し、日系3世、4世の定住ビザ取得を容易にしなければなりません」(PNLSCホームページ)と、河合氏は言う。

もうひとりの代表理事、猪俣典弘氏は、1969年生まれで、マニラのアジア社会研究所で社会学を学び、現地のNGOとともに現地の農村で井戸を掘る活動に関わった。その後NGOに勤務しフィリピンやミャンマーなどで活動した。

PNLSCは、フィリピン日系人会連合会などと連携して、国籍問題のほか身元捜しや親族との対面を支援、また現地調査も行ってきた。フィリピン日系2世は、戸籍がないか戸籍の所在のわからない人が多く、こうした人ついては、「就籍」といって家庭裁判所の許可を得て、新たに本籍を設定して戸籍を作成するという方法がある。認められるのは簡単ではないが、支援の結果2006年には、フィリピン日系2世の井出端姉妹が初の就籍許可を得た。その後も就籍支援は続き2017年11月には就籍許可を得た人が200人に達した。

さらに「中国残留孤児並みに日本政府の調査と支援を求める」趣旨の国会請願署名を集めるなど、政治にも働きかけてきた。また、 2020年には、河合氏が企画・制作に携わったフィリピン残留日本人と中国残留孤児を描いたドキュメンタリー映画『日本人の忘れもの 中国とフィリピンの残留邦人』(脚本・監督:小原浩靖)が公開され、フィリピン残留日本人の存在を広めた。


ハポンを取り戻す
  

『ハポンを取り戻す フィリピン残留日本人の戦争と国籍回』

この映画と同時に、PNLSCの活動とフィリピン残留の日系人の問題については、河合、猪俣両氏の共著で『ハポンを取り戻す フィリピン残留日本人の戦争と国籍回復』(ころから株式会社)を出版した。「フィリピン残留の日系人の置かれた立場」、「彼らは何を求めているのか」といった、支援にあたっての基本的な知識をはじめ、聞き取り調査した残留日本人の生の声、そして、あらためて歴史に沿ってフィリピンでの日本人の足跡を、戦前、戦中、戦後にわけて解説している。歴史的な経緯、2世の味わった苦難の事実、支援の必要性が、実にわかりやすく整理されている。

戦争によって、フィリピンと日本の狭間に置かれた2世がいかに苦しんだか。本書にある一例を紹介すれば、2世で三男の寺岡カルロスさんには二人の兄がいたが、長男は米国製のタバコを持っていたというだけでスパイ容疑で日本の憲兵隊本部で銃殺された。一方、日本の関連会社で働いていた次男はフィリピン人ゲリラによって殺害された。

猪俣氏は、残留日本人の調査でフィリピンを歩き回るたびに胸が痛くなるという。なぜなら日本人である同氏が会いに来たというだけで、残留者は涙を流し、それまで迫害を恐れ、口を閉ざしていた自分の日本人としてのルーツを話すからだ。このことは、中国残留孤児を取材した写真家の江成常夫氏が、彼らに会うと名刺をほしいとせがまれるという話に通じるものがある。残留孤児たちは少しでも日本とのつながりをほしかったのだ。

自分が日本人であること、自分が何者なのかを確認したいという、残留孤児や2世の切なる思いに、歴史的な経緯からして日本人は応える義務がある。

PNLSCによれば、いまもフィリピン残留2世で約900人が身元未判明で、また、戸籍がないために事実上「無国籍」状態に置かれた2世が約600人いると推定される。

「問題が『解決』する前に、問題そのものが『消滅』してしまう、取り返しのつかない時代に至る瀬戸際にあります」と河合氏が言うように、一刻も早く法律的な手続きを進めると同時に問題解決のための政治的な判断を国が下す必要がある。 

 

© 2023 Ryusuke Kawai

Japanese citizenship orphans Pacific War Philippines World War II

このシリーズについて

日系ってなんだろう。日系にかかわる人物、歴史、書物、映画、音楽など「日系」をめぐるさまざまな話題を、「No-No Boy」の翻訳を手がけたノンフィクションライターの川井龍介が自らの日系とのかかわりを中心にとりあげる。