ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2021/10/4/gyoza/

皆が好きになるバチャンの餃子

イラスト: サンドラ・レゲンドレス

幼少期の鮮明な思い出はたくさんありませんが、あの日のことは、はっきりと覚えています。バチャンはお母さんたちを集めて、今で言う「餃子作りのワークショップ」を行いました。私は何歳だったか覚えていません。バチャンの嫁さん、つまり、母も参加しました。

バチャンの餃子は家族や友人の間で大人気でした。モジ・ダス・クルゼス(サンパウロから1時間の町)の祖父母を訪ねると、食卓にはいつも餃子がありました。私の大好きな世界一の餃子でした。「中身は何かなぁ」と、最初は考え込むのですが、口に入れるとそのおいしさに魅了されるのです。

その日は、特別だったので、女性たちはエプロンをして、キッチンの広い4人掛けのテーブルを囲んで、餃子の具の作り方を習っていました。豚と牛の合いびき肉に白菜かキャベツ、ニラを少し混ぜて、塩、にんにく、しょうが、ごま油、しょうゆで味をつけます。次に、具を皮に包んで、ひだを上手く寄せます。揚げるときには、中の肉が完全に加熱するためのコツがありました。その間、私たち子供は花や木でいっぱいの庭で遊んでいました。物干し竿を支える竹の棒を避けながら、吠える犬を追い駆け回してたりしていました。

しかし、バチャンに教わった餃子は、手間がかかるのでうちでは作りませんでした。幸いなことに、バチャンはいつも冷凍した餃子を、うちに持って来てくれたし、私たちが訪ねたときはお土産に持たせてくれました。まだ子供だった私に、しょうゆにレモン汁を少し加えるとソースが美味しくなることを教えてくれました。私は、和食のレストランや中華料理レストランに行っても、餃子をオーダーすることはありません。私を可愛がってくれたバチャンの餃子がありましたからね。バチャンが他界して2年ほどたちますが、未だに外で餃子を食べることはありません。

私が20歳を過ぎたころ、バチャンは餃子の作り方を教えてくれました。12月の蒸し暑い週末、カーテンを大きく開けて、部屋を明るくしました。遊びに来ていた母方の5~6歳のいとこも具を入れてひだを寄せ、一緒に作りました。いとこは、まだ一度も食べていない餃子を初めて作ったのです。今でもテーブルをじっと見つめると、当時のバチャンと母といとこと私が餃子を作っている風景が目に浮かびます。まるで時が止まったかのように。

温かい手のひらの中にある冷たい餃子の皮の感覚が今でもよみがえります。私は指が短くて、折り紙を折るときのように手先が器用に動かせず、ひだを寄せるのが下手でした。中身のしょうがとニラの独特な香り。餃子に焼き目を付けるときの音やフライパンの底の水が沸騰し中身の肉が完全に加熱する瞬間。そして、カリカリの皮とふわふわの中身の食感!フォークとナイフではなく、餃子は必ずお箸で食べました。。

私より4歳年下の父方のいとこは、ミナス・ジェライス州に住んでいて、バチャンにめったに会えませんでした。思春期のころ、いとこはバチャンから餃子の作り方を一から習い、私と違って、家でも作り、レシピを暗記したようです。現在、私はサンパウロで、いとこは福井県鯖江市で、同じレシピを使っています。

子供のころにブラジルに来たバチャンは、自分の子供、孫、甥や姪たちに、それぞれのお気に入りの食べ物を作ってあげるのを楽しみにしていました。誰よりも上手に作れるとも思っていました。私には、餃子のほかに、カレーライスといなり寿司を作ってくれました。うちでは白いご飯とフェイジョン1を食べていた私にとって、伝統的な日本の家庭料理は特別な料理で、いつも美味しくいただいていました。しかし、バチャンが私と一緒に外食するときは、いつもブラジル料理のレストランやファストフードを選んでいました。

私は、バチャンにとって、少し「おかしな子」に見えていたのでしょう。時には、叱られることもありました。私がエプロンをするのを忘れて皿洗いをしたり食事を作っているのを呆れて見ていました。時々、エプロンを私の太い腰の周りに結んでくれていました。そうでないときは、ただ、額にしわを寄せて苦笑いをしていました。私の洗濯物の干し方が気に入らなくて、洗濯機が止まると、バチャンは素早く洗濯物を取り出し、自分で干していました。そして、私が出かけるときは、遠慮なく「髪を梳かしたのか」と、聞いていました。私は笑いながら、話をそらしたものですが、今では微笑ましく思い出します。私は髪を梳かさなかったから。

バチャンは私と出かけるのが好きで、地下鉄に乗り、ショッピングセンターのフードコートで新しい物を試食し、帰りにアイスクリームを食べました。

思い出すと、「泣かないのよ!マリナ!」と、バチャン独特なニュアンスのポルトガル語での励ましの言葉が聞こえるようです。懐かしくて感動的です。バチャンが他界して約2年、「大丈夫だよ」と言ってくれている気がします。

涙しながら私は、家族の女性たちをふと思い出します。年齢も世代もバラバラ、遠くにいる人、近くにいる人。遠い幼少期のあの日に、皆で台所の食卓を囲み、何人かはエプロンをかけ(私はかけませんでしたが)、一緒に料理をしました。皆が一番は好きなのはバチャンの餃子でした。世間話をし、笑いながら、貴重な時間を過ごしました。今も、バチャンの餃子は格段に美味しくて、とても懐かしい大事な思い出としてよみがえってきます。

注釈 

1.フェイジョンはブラジルのソウル・フード。日々ご飯にかけて食べる豆料理。

 

© 2021 Marina Yukawa

ブラジル ダンプリング 伝統 家族 日本食 食品
このシリーズについて

「ニッケイ物語」シリーズ第10弾「ニッケイの世代:家族とコミュニティのつながり」では、世界中のニッケイ社会における世代間の関係に目を向け、特にニッケイの若い世代が自らのルーツや年配の世代とどのように結びついているのか(あるいは結びついていないのか)という点に焦点を当てます。

ディスカバー・ニッケイでは、2021年5月から9月末までストーリーを募集し、11月8日をもってお気に入り作品の投票を締め切りました。全31作品(日本語:2、英語:21、スペイン語:3、ポルトガル語:7)が、オーストラリア、カナダ、日本、ニュージーランド、ブラジル、米国、ペルーより寄せられました。多言語での投稿作品もありました。

このシリーズでは、編集委員とニマ会の方々に、それぞれお気に入り作品の選考と投票をお願いしました。下記がお気に入りに選ばれた作品です。(*お気に入りに選ばれた作品は、現在翻訳中です。)

編集委員によるお気に入り作品

ニマ会によるお気に入り作品:  

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* このシリーズは、下記の団体の協力をもって行われています。 

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執筆者について

1994年、埼玉県生まれ。ブラジル国籍の作家でジャーナリスト。2歳のころからサンパウロ市在住。2017年、サンパウロ大学コミュニケーション芸術学部ジャーナリズム卒業。コースワークの修了リポート「Sorrisos amarelos・黄色い微笑(直訳)」は、2020年にViseu出版社から上梓。フィクッションの分野では短編「Setas que voam de dia・昼間に飛ぶ矢(直訳)」と「Abutre・ハゲワシ(直訳)」がコンテストで選ばれ、Terra Redonda出版社の2021年版の短編集「Isto não é Direito」に掲載。(写真:アルツル・イヴォ)

(2021年10月 更新)

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