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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2016/1/29/greenwood/

ブリティッシュコロンビア州グリーンウッド:最初の強制収容所

カナダのブリティッシュコロンビア州グリーンウッドは、ブリティッシュコロンビア州沿岸地域から追い出された日系人の「転住」先となった、最初の強制収容所でした。1941年12月7日、日本は真珠湾を攻撃し、その直後にイギリス領の香港を制圧したため、カナダは日本に宣戦布告しました。その結果、連鎖的に日系カナダ人を沿岸部から排除する政府決定が下されました。戦時措置法が施行され、日系人はなすすべもありませんでした。「シカタガナイ」という言葉は、そんな状況で出てきた言葉かもしれません。抗議した者は、オンタリオ州のペタワワやアングラーの捕虜収容所に連行されました。グリーンウッドが収容所に選ばれた理由と経緯を理解するには、1900年代前半までさかのぼる必要があります。

バンクーバーの住人の大半は、パウエル・ストリートを「日本町」と呼んでいました。ヘイスティングス製材所は、早ければ1800年代後半には日系移民を主な肉体労働者として雇用していました。日系人労働者の住居や食事などの需要が生まれたことに伴い、日系コミュニティが誕生しました。労働者のニーズに応じ、ホテルや商店、レストラン、雑貨店、風呂屋ができました。独身男性が日本から結婚相手を呼び寄せ、家庭を持つようになると日本町の人口は大幅に増加し、パウエル・ストリートは好景気に沸きました。日本語学校が開校し、お芝居のコンテストが毎年開かれるようになりました。歌と踊りの活気ある舞台で、滋賀県のグループが優勝の常連となりました。

ジャクリーン・グレシュコ氏の調査記事によると、キャサリン・オメリアは1902年当時、バンクーバー東部で聖公会の宣教師をしていました。パウエル・ストリートで日系人支援を始めることにしたキャサリンは、1912年までには改修し、カトリック教徒となっています。キャサリンは、日系人からオメリガさんと呼ばれていました。1926年、キャサリンは57歳で修道女となり、シスター・メアリー・ステラと名乗るようになりました。

シスター・ステラは、ダンレヴィー通りとコルドヴァ通りで日系人への伝道活動を始めました。修道女たちは日系の子供たちのために幼稚園や託児所を始めました。請負仕事のためにバンクーバーを離れる親たちは、子供たちを修道女に預けて行きました。1930年までには改宗者の小グループができていました。ベネディクト・キグリー神父は修道士だった頃、教区民と話をするために和歌山弁を学びました。

1931年、ニューヨーク州グレイモアから来たアトンメントのフランシスコ修道会の修道者は、スティーブストンで日系人へのカトリックの布教活動を始めました。ここには大規模な日系コミュニティがあり、主に漁業を生業とする人々が家族で住んでいました。シスター・アントワネットとシスター・メアリー・ステラは、缶詰工場地域の日系人の長屋建て住宅を訪ねて回りました。短期間で200人が改宗し、4人が聖職に就くための勉強を始めました。残念ながらシスター・メアリー・ステラは1939年に亡くなり、夢がかなう瞬間に立ち会うことはできませんでしたが、日系人による伝道団を立ち上げるという故人の遺志は仲間に引き継がれました。ピーター・バプテスト・カツノは、フランシスコ修道会から任命された初の日系カナダ人修道士となりました。1941年までに「日系」人口はスティーブストンの人口2,500人のうち2,000人に達していました。

第二次世界大戦は、日系カナダ人の歴史の流れを変えました。ヘイスティングスパークは、バンクーバー島とプリンスルパートに住む全ての日系カナダ人の拘留地となりました。スティーブストンとバンクーバー在住者は、退去を命じられるまでは自分の家に住み続けることができました。

フランシスコ修道会の修道者が強制収容の過程で重要な役割を果たしたのはこの時でした。大勢の教区民が修道女たちに安全な場所を見つけてほしいと頼んだのです。ベネディクト・キグリー神父は、自身の義務の範囲を越えて懸命に場所を探しました。内陸部のブリティッシュコロンビア州ネルソンにまで車で出かけて行き、日系アメリカ人を受け入れてくれる町を探しました。

グリーンウッド(写真提供:グリーンウッド博物館)

マーティン・ジョンソン司祭は、徐々にゴーストタウン化しているグリーンウッドなら受け入れてくれるかもしれないとアドバイスしました。ベネディクト神父はW・E・マッカーサー・シニア市長に会うため、グリーンウッドに車を走らせました。解決しなければならない課題がいくつかありました。市長はまず、「日本人」を受け入れることになった場合、町の人は自分たちの身の安全の心配をするだろうと神父に伝えました。神父は、そのような心配はナンセンスで、身の安全が心配なのは行き場のない日系人の方だと説明しました。私はこの話を、ミッツィ・(ササキ)・フゲタから聞きました。

最終的に市長は、住民会議を開き、投票で決定すると約束してくれました。モリー・(マドコロ)・フクイによると、マッカーサー市長はグリーンウッドには人が必要であることと沿岸部の日系人には行き場がないことを住民に伝え、説得を試みました。何度も住民会議を重ねた結果、グリーンウッドの人々はフランシスコ修道会の修道者が地元住人の安全を保証し、全責任を負うことを条件に、強制収容されていた日系カナダ人の受け入れに合意しました。最終的に、ほとんど全員が受け入れ賛成の票を投じましたが、最後まで反対の立場を通した人も2人いました。

シスター・ジェローム・ケリハーとシスター・ユージニア・コッパスは、日系人を乗せた最初の汽車が到着する前日、18時間汽車に揺られてグリーンウッドに到着しました。知り合いに出迎えられれば日系人も安心するだろうという配慮からでした。1942年4月26日、汽車がグリーンウッドに到着しました。乗客のほとんどが高齢の男性と女性と子供たちでした。若い男性は道路建設に従事するための収容所に送られていました。

グリーンウッド行きの列車(写真提供:グリーンウッド博物館)

マッカーサー市長は、最初の列車で到着した日系人の歓迎会を開きました。修道女たちはカトリック教区民を駅で出迎えました。荷物や住居に向かう一部の人を乗せるため、トラックが待機していました。製錬所の景気が良かった時代、グリーンウッドには3,000人が住み、宿泊施設も充実していました。1918年、銅の価格が急落し、製錬所は閉鎖されました。人口も急激に減少し、200人を下回りました。そこに約1,200人の日系人が到着し、古いホテルや空き家を満室にしました。

1942年4月26日グリーンウッドに到着した日系カナダ人
(写真提供:グリーンウッド博物館)

身なりのきちんとした都市生活者だった日系人は、沿岸部で自分たちが正直で働き者であることを証明してきたように、グリーンウッドでも住民の不安を拭い去りました。男たちが道路建設の強制収容所から戻ると、その労働力を利用すべく、いくつか製材所が立ち上がりました。グリーンウッドに再び活気が戻ってきました。

1945年に戦争は終わりましたが、政府は日系人が沿岸部に戻ることを断固として拒みました。政府からの最終通告は、「ロッキー山脈以東への移動か日本への送還」でした。グリーンウッド商工会議所は、この不公平な政策に抗議しました。他の地域は、政府によるこの制裁措置を受け入れましたが、グリーンウッドは反対しました。したがってグリーンウッドでは、日系人家庭に「岩ばかりの過酷な環境行き」の選択肢を受け入れさせようとする圧力がかけられることはありませんでした。批判を受けた政府は、1949年、日系カナダ人が沿岸部に戻り、カナダ人としての全ての権利を持つことをようやく認めました。

地元民として「養子縁組」した日系人が町に留まれるよう支援してくれたグリーンウッドの人々に対し、日系人は感謝しなければなりません。1949年以降も約700人の日系人がグリーンウッドに留まり、1950年代の町の総人口は約1,000人でした。他の収容所では施設の閉鎖に伴い、多くの日系家族が行き先を選ばなければなりませんでした。大多数がオンタリオやケベックを選び、プレーリーに向かった人々もいました。そして約4,000人が日本行きを選びました。

これが、グリーンウッドが最初の強制収容所となった理由と経緯の全貌です。スローカン・バレーのレモン・クリーク、ポップオフ、ベイ・ファーム、ローズベリーといった場所に間に合わせで設置された収容所や、収容者が自活していたカリブー地域リルーエット収容所は解体され、消滅しました。収容所があったことの証しとして農場が一ヵ所残されましたが、遠い昔の記憶となりました。唯一ニューデンバーには戦後も小さな日系コミュニティが残り、日系人強制収容メモリアルセンター(The Nikkei Internment Memorial Centre)が建てられました。

今年、カスロ在住の最後の日系二世が亡くなりました。教員だったアヤ・ヒガシは、地元の人々から尊敬されていました。セント・アンドリュース合同教会とランガム文化センター(Langham Cultural Centre)は、アヤ・ヒガシの功績を称えました。ニューデンバーの日系人は今では数人のみです。グリーンウッドには今でも約30人の日系人が住んでいます。彼らは町に根を下ろし、グリーンウッドを離れませんでした。もちろん多くがグリーンウッドで亡くなり、または子供たちの近くに住むために引っ越して行きました。

グリーンウッド博物館には日系人の歴史コーナーがあり、ニッケイ・レガシー・パークは改修されました。日系カナダ人をグリーンウッドに連れて来る上で非常に大きな役割を担ったのがアトンメントのフランシスコ修道会でした。合同教会も少し貢献しました。これはあくまで「仮説」ですが、マッカーサー市長が日系カナダ人をグリーンウッドに受け入れる決定をしていなかったら、日系人の歴史はずいぶん違ったものになっていたでしょう。プレーリーでテンサイの収穫をしていたか、ほとんどの二世にとって未踏の地だった日本へ強制移住させられていた可能性が高いでしょう。グリーンウッドの日系人はとても幸運でした。

 

© 2016 Chuck Tasaka

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執筆者について

チャック・タサカ氏は、イサブロウ・タサカさんとヨリエ・タサカさんの孫です。チャックのお父さんは19人兄弟の4番目で、チャックはブリティッシュコロンビア州ミッドウェーで生まれ、高校を卒業するまでグリーンウッドで育ちました。チャックはブリティッシュコロンビア大学で学び、1968年に卒業しました。2002年に退職し、日系人の歴史に興味を持つようになりました。この写真は、グリーンウッドのバウンダリー・クリーク・タイムス紙のアンドリュー・トリップ氏が撮影しました。

(2015年10月 更新)

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