ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1199/

法律制定において自身を代弁することの重要性(英語)

(英語)裁判を起こすことの重要な意義の1つに、日系の我々自身が、この裁判を自らのものとして捉え、他人事ではないという意識を持つことにありました。法律の制定には、こういった当事者意識に関わる問題がありました。日系人を代弁するはずの法律のほとんどが、実は日系人以外が作ったものでした。初期の頃は仕方がなかったのかもしれませんが、そのままではよくありません。むしろ、問題だと思います。そういったやり方では、当事者が最も求めている結果は得られません。私たち日系人自身が一歩前に踏み出し、自らの考えを述べ、主張することが重要です。


アイデンティティ 法律 立法行為 自身を代弁すること(政治) 訴訟

日付: 1998年6月12日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウィリアム・ホウリ氏は、1927年カリフォルニア州サンフランシスコに6人兄妹の末っ子として生まれました。第二次世界大戦の勃発と同時に、家族と共にカリフォルニア州のマンザナー強制収容所に収監されました。高校を卒業した1週間後、ホウリ氏は強制収容所からウィスコンシン州に移り、ウィートン大学に入学しました。1945年3月、ホウリ氏は、父親に会うため再びマンザナーを訪れましたが、許可証を持たずに来訪したとして身柄を拘束されました。さらに、彼個人に対する立ち退き命令が下され、その日の深夜までカリフォルニア州外へ強制退去させられることになりました。その時、ホウリ氏には銃口が突き付けられていました。

戦後、ホウリ氏は、日系アメリカ人市民同盟(JACL)のメンバーとなりましたが、反戦運動や公民権運動に対するJACLの無関心に失望しました。JACLが、議会の委任を受けて強制収容に関する調査活動に乗り出したことを受け、ホウリを中心とするシカゴとシアトル支部の反対者は、1979年5月、政府による個別補償を求めるため、全米日系アメリカ人市民連盟(NCJAR)を立ち上げました。当初、ホウリ氏とNCJARは、マイク・ローリー下院議員(ワシントン州選出)に個別補償の法案化を依頼しましたが、廃案となったため、ホウリ氏とNCJARは裁判で賠償請求を行うことにしました。1983年3月16日、ホウリ氏と24名の原告団は、政府を相手取り27億ドルの損害賠償を求める複雑訴訟形態の裁判を起こしました。

ホウリ氏は、2010年11月12日83歳でこの世を去りました。(2011年11月)

ボブ・キヨシ・オカサキ

渡日に対する決断に祖母の影響(英語)

日本在住30年以上の日系アメリカ人陶芸家。(1942年生)

マサカツ・ハイメ・アシミネ・オオシロ

幸福のために可能な選択も... (スペイン語)

ボリビア元駐日大使 (1958-2014年)

飯野正子

日系人とは?

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

飯野正子

日系人から学んだこと

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

ジェームス・ヒラバヤシ

ニックネーム (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ジェームス・ヒラバヤシ

前後関係・時代背景の織り成す意味 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ジェームス・ヒラバヤシ

日系人を研究している日本人研究者の推論 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

スティーブ・カジ

FOB - 新参者 (英語)

ハワイ生まれの在日日系人。YMCAの英語教師。

ベナンシオ・シンキ

日本語学校での偏見 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

マイク・シノダ

日本への親近感(英語)

ミュージシャン、プロデューサー、アーティスト(1977年生)

PJ・ヒラバヤシ

太鼓から感じる力強さ(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・製作監督

PJ・ヒラバヤシ

太鼓を通して感じ一世と三世のつながり(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・製作監督

アン・K・ナカムラ

アメリカのイメージ(英語)

ハワイ出身の三世。教師・ビジネスウーマンとして日本在住。

ボブ・キヨシ・オカサキ

子供時代の日本の影響(英語)

日本在住30年以上の日系アメリカ人陶芸家。(1942年生)

PJ・ヒラバヤシ

多様なメンバーを持つサンノゼ太鼓(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・製作監督