ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/504/

父による農業経営の成功(英語)

(英語) 私の父は当時27、8エーカーの農場から事業を始めました。私の知る限りでは、彼は1910年にミッションに移住し、1911年には和歌山から(働き手を)呼び寄せていた様です。たくさんの呼び寄せ人を集めるうちに、農場は呼び寄せでいっぱいになりました。1910年には、父は28エーカーを、次の年にはもう10エーカー購入し、1916年にはさらに26、7エーカー手に入れていました。その後1918年には、もう10エーカー購入したので、全て合わせると80エーカーの土地を手に入れたことになりますね。

I*:広大な土地ですね。

ええ。父はかなり成功した農家でした。私が調べたところに寄れば、1918年に父は6,000ドルの収入を得ていたんです。6,000ドルですよ。さらに驚くべきことは、別の資料によると、その翌年は22,000ドルの総収益を上げ、11,000ドルの利益を得ていたんです。当時パン一斤が3、4セントくらいの時代にです。

*「 I 」 はインタビュワー(ノーム・イブキ)。


日付: 2005年10月29日

場所: カナダ、トロント

インタビュアー: ノーム・イブキ

提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト、日系文化会館

語り手のプロフィール

ウィリアム(ビル)・タサブロウ・ハシズメ氏は1922年6月22日にブリティッシュコロンビア州ミッションに生まれ、幼少時代をそこで過ごしました。1939年、父を亡くした後、ビルは日本で教育を受けるため母と二人の妹とともに大阪へ移住しました。1941年の真珠湾攻撃ゆえに、ビルと彼の家族は日本に足止めされましたが、ビルは日本で学業を続け、1944年に神戸市立工業高等専門学校を卒業しました。その後まもなくして徴兵された彼は、日本帝国海軍に従軍し、1945年に海軍が解体されるまで士官を務めました。

戦後、ハシズメ氏はアメリカ軍の憲兵隊で通訳を務めました。カナダ政府は、真珠湾攻撃後日本に足止めされたり、1940年代後半に日本へ強制送還された日系カナダ人に対し、1950年代初期まで帰国を禁止していたため、ビルはカナダへ帰国することができませんでした。が、1952年カナダ政府より市民権を復権し、姉妹のいるトロントへ戻ってきました。

ハシズメ氏は55歳で技師としてひとり立ちしました。オンタリオのDepartment of Highways(高速課)で技師として雇用、65歳で退職しました。また、ブリティッシュコロンビア州ミッションの日系カナダ人史を研究し、本を執筆しました。現在、彼はトロントで活動的で健康な日々を送っています。(2006年8月23日)

カズオ・フナイ

ビジネスでの苦い経験

一世実業家(1900-2005)

カズオ・フナイ

東京の会社が焼失

一世実業家(1900-2005)

ミツオ・イトウ

子供の頃の日常生活(英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

ミツオ・イトウ

アルベルタのテンサイ農場(英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

サム・ナイトウ

戦後に始めた輸入業(英語)

二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)

フランク・ソギ

5歳で働き始めて(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

バート・A・コバヤシ

19歳で家族経営に携わる(英語)

Kobayashi Group LLCの.創設者 (1944年生)

バート・A・コバヤシ

仕事における体・心・精神の倫理(英語)

Kobayashi Group LLCの.創設者 (1944年生)

マーガレット・オダ

ワイレア製糖工場をはじめた父の役割(英語)

(1925 - 2018)ハワイ出身の教育者、二世

西村 俊治

見よう見真似で物にした仕事

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

西村 俊治

ブラジル社会に恩返し-不足のテクニコを育成

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

エミ・笠松

日系人のパラグアイ農業へ貢献 (スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

トシオ・イナハラ

大学進学を勧められて (英語)

血管外科医(1921年生)

BJ・コバヤシ

家族経営に携わることへ疑問なし(英語)

ハワイのビジネスマン、開発者